【フィリピン地図】
フィリピン ホロ島は、南フィリピンの端位置し、その位置関係が戦略的価値(海上交通経路の要所として)があったとされていました。そのため、臨時編成ながら1個旅団(第55旅団)が配備され、アメリカ軍も上陸することになったのです。
ホロ島に配備された日本軍将兵6,000人のうち生還した者わずかに80人。アメリカ軍との戦いに三分の一が死し、三分の一がマラリアに斃れ、残り三分の一が恐るべきモロ族に殺害されるという、南方の中でも最悪の玉砕戦場と言われています。
独立混成第55旅団の編成は以下のとおり。
◆旅団司令部
旅団長:鈴木鉄三少将 166名
○独立歩兵第363大隊:994名
○独立歩兵第364大隊
○独立歩兵第365大隊:995名
○旅団砲兵隊:362名
○旅団工兵隊:184名
○旅団通信隊:178名 |
1944年6月(29歳)再応召
所属:比島派遣・独立混成第55旅団所属
配属地域: フィリピン、ホロ島
1年半ぐらいたって、また再応召が来た。今度はフィリピンです。一番南の端、これ以上南はないという南の端のホロ島という小さな島、同じフィリピンに行った
兵隊でも殆ど知りません。日本で言うと淡路島や佐渡島ぐらいの大きさの島ですが、このうち四分の一ぐらいしか日本軍は確保していません。そこで陸海軍併せて6000人全滅して、1名も生存者なしと日本の新聞には出たらしいんですよ。
ところが実際は僕らを含めて88人生きて帰ったんです。戦争は終わってるのに何しとるかと言うことでね。
その時に、僕らがあれだけ6000人も死んで1名も生存者なしと言われるぐらいにやられたと言うことは、大方は原住民にやられた訳です。
米軍は空からと下からと近代戦です。アメリカ軍は完全武装ですけど、彼ら原住民は裸足ですよ、裸ですよ、腰に蛮刀を一丁下げているだけです。
それに皆首を切られて死んだ。あれはね、アルカイダと同じ派なんですね。イスラム真理派、今でもアブサヤフって言ってね。
僕らは何で彼らにあんなにやられるかっていう事が分からなかった。
声も立てない、音もさせない。一番前の歩哨線を潜り抜けて、どっから入ってくるのか知らんけれども、中の隊長がやられるというような戦法です。彼らにどうし
てあんなに負けたかと言うことは、僕らは格好が悪くて日本に帰っても言えなかったんですけど。
可哀想にね、皆帰りたかったんだけれども・・・、あそこで・・・死んだ。
僕は 「あれは本当に犬死だなあ」と思っていたんですよ。全くの犬死ですわ。
もうちょっと敵とまともな戦争にでもなってるんだったら良いけど、やられっ放しですからね。
ようするに野垂れ死にというか、敗残・・。最期はみんな本当に敵と戦ってと言う事やなしに、腹が減って、ふらふらになって、それで彼らに首を切られて死んだ。
始めからまともに武器をくれていないんですよ。食べるものなんか全然無い。薬も無い。そんな兵隊をあんなところに人間だけ放り込んでおいてね。
ルソン島の第14軍の本部に向けて、「敵上陸シツツアリ」という電報を送った。その返電、「ご健闘を祈る」。それだけなんですわ。勝手にせいという訳ですな。見捨てられた。
あんな所で見捨てられてね、食料も貰わず、敵と闘う武器すら貰えないで、それで最後は「ご健闘を祈る」・・・。
もう、それは、皆情けなかったですよ。
ホロ島の日本軍は全滅したと報道されたが、6030名の戦没者、そして、生還したのは藤岡さんを含め、88名であった。
1945年8月末 投降。
ミンダナオ、レイテ、ルソンの各収容所を経て1947年に帰還。
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