「戦場からの証言」証言者の兵歴
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陸軍:砲兵 中国:満州  
シベリア抑留:チタ、ナムリスカ〜1947年10月ナホトカ〜舞鶴帰国  
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◆中野 秦さん

生年月日:1919年(大正8年)
所   属:陸軍   ■兵   科
最終階級士官
戦場地名
▲1944年(昭和19年)3月〔25歳〕応召……孫呉(北満)515部隊、保定幹部候補生隊を経て
                        1945年見習い士官として
                        ハイラル481砲兵隊:満州
△1945年(昭和20年10月〔26歳〕…シベリア、チタ、ナリムスカヤの捕虜収容所に抑留
帰国年月日1947年(昭和22年)10月〔28歳〕:ナホトカ港〜舞鶴経由にて帰国


【独立混成第80旅団(ハイラル)鋭鋒】
1944年(昭和20年)4月
各種部隊
司令部…大阪
独立歩兵大隊…大阪・和歌山
旅団砲兵隊…信太山
旅団工兵隊…大槻
旅団通信隊…大阪
旅団輜重隊…境
を集成して編成し、ハイラルでソ連の大軍と
壮絶な攻防戦を展開。

【独立混成旅団】

  戦史を調べると、独立重戦車大隊とか独立混成旅団などのように、しばしば独立部隊が登場する。
では、この独立とは何か。
  通常、独立と呼ばれる部隊は、師団に所属しない事を意味する。基本的に大隊や旅団は師団に属する部隊である。
しかし中には、兵器の性能や部隊の性質上、師団に含めるのは適当でないものもある。
例えば独逸の重戦車ティーガーは機甲師団で使用するには起動力が低い為、師団から外し、大隊単位で使用された。重戦車大隊は西へ東へと戦略的に移動させられ、必要に応じ師団の能力を臨時に向上さる事になった。
 野戦では出番のない攻城砲なども、師団から外し、要塞攻略など特別な場合に独立砲兵大隊などの形で投入される。後方守備などでは、師団ほどの兵力は必要とせず、砲兵火力も少なくて良いことがある。こうした場合、師団より小形の部隊を使用した方が適当なため、師団に所属しない旅団や連隊を作ることもある。
  例えば日本軍では、中国戦線での守備用に独立混成旅団を編成している。


【シベリア周辺地図】

 
シベリア抑留
  第二次世界大戦末期に行なわれたソビエト連邦の満州への侵入によって生じた日本人捕虜(民間人を含む)が、長期間シベリアに強制抑留された。樺太などで捕虜となった旧日本軍将兵や在満州民間人など、約60万人がシベリアに抑留され、過酷な環境下で強制労働に従事させられた。
シベリア抑留において全体の1割に当たる6万人(グラスノスチ後、発見された資料によると、約40万人とも)もの死者を出したという。日本人については最後の捕虜がいまだ日本に帰還していないとのことである。冷戦終結後、ロシア側から収容所・墓地の所在地リストが日本政府に手渡されたことに基づき、厚生省(現・厚生労働省)や民間の遺族団体などによって、毎年夏季に現地で抑留中死亡者の遺骨収集事業が進められている。

 

 戦場証言※証言者の言葉を忠実に文章化しています。

1944年(25歳)応召
所属:
孫呉(北満)515部隊、保定幹部候補生隊を経て
    1945年見習い士官としてハイラル481砲兵隊 
配属地域
:満州


 私はたまたま、満州の部隊に入ったので、最後シベリアへ行くようになったのは満州にいたから、興安嶺の山の中でうろちょろしてしてたもんだから、そこでソビエトの兵に抑留されて、日本に帰れると思ったのが逆に西の方へシベリア鉄道引っ張られて行ってしまった。
  それで昭和20年10月10日前後にチタという町に着いた。 で、チタという町のすぐそば、だいたい6〜70キロぐらい西のほうになるのかしら、ナリムスカヤというところで伐採をさせられた。

 1500人ずつどっかに連れて行かれたんだよ。
始めは帰るんだ帰るんだと思っていたら、そうじゃなくて逆に西の方にいっているんだと分かってきて、すぐには帰れないんだと分かった。
私達の部隊も1500人で運送されたんだけど、泊まった駅のすぐ側に500人降ろされて、僕らのところが1000人。チタから何十キロか歩いて、一晩野営しましたよ。歩かされてそこに行って、まあそこは宿舎だっていうんで見たら建物があるだけの野っ原で広いところでしたね。

 1日1人2立方メートル切りなさいっていうわけ。今日本の山に行くとチェーンソーでもって切っちゃうけど、当時はね長い1メートルくらいののこぎりで両方に柄がついている。二人で持って、引くんですね。で、3人1組で2人がのこぎりを引くわけです、1人は枝を払って、燃やしてきれいにしなさいと。 3人1組だからその組では6立方切るわけ。
ロシア語で「悪い」っていうのは「プロハ」っていうんだね。さかんに「プロハ・ラボータ(仕事)」だって言うんだけど、そんなことはない よ、これこれ切ったんだよと言ったら、いろいろ調べてみると、切った木の種
類がある。大きいばかりが良いわけではないらしいんだよね。大きいやつは薪にしかならない。段々木の質が分かってきてね。
そう言うのがノルマに計算されるようになり始めるたら、ノルマをこなすのが大変だと分かってきた。若手の人達で、それこそ一日中、まあ休み無しでやらないとノルマ達成出来ないようなもんでしたね。

 兵隊さんは切った木のへりに、太さは何センチと書いてチェックしてくんですね。それを、切っちゃう、おせんべいみたいに。で、「隊長、隊長。」ってね、1週間位経ってからね「これ、つけ忘れてた」と言ってもう1回つけるわけだ。
1本の木を2回、3回にやったってことだ。僕も言われてから、「あっ、やったんだな」って分かるわけ。
 それが5月の半ば過ぎになると、氷が溶けるわけです。その時までに川岸まで材木を運んどいて、そこで川に流す、落とす。そしたら独りでに全部流れていく。それをヘマな事をすると、最後に大きな木が残っちゃうわけ。水が流れちゃって太い木が残っているから、行こうとすると「あれを流せ」って言う。すると川の中に入って、全部棒を持って転がして、深い所に持って行って流すので、苦労した人もいましたね。

 で、中隊ごとに炊事をやったんですよ。4個中隊だから各250人。僕は第4中隊だったかな。その中で第2中隊の隊長が山本さんという東大を出た中尉と聞いてたんですけど。で、いろいろ食料のことを言うけど、ロシアは食料に関しては規定通りよこしたと思うんですね、それを上の人が何かって言うと余計に食べるわけだ。
  そういうふうに中隊別にやっていて250人の内から少しでも取ると、一番下は減りますよ。ところが第2中隊の山本中尉はそれをすぐに察知して、「絶対おれの所に余計持ってくるんじゃない」、将校にも「そうじゃなくて250人分もらうんだから250分の1を俺のところに持ってこい。そういうふうに全部やりなさい」とやったところ、病気も無かったし、体の衰弱も無かったのね。だから第2中隊はほとんど健在じゃなかったかな。第1中隊っていうのは死んだ人が多かった。

 宣戦布告をして行く時は、全部の道具、兵隊のシャツとか着替えも何着かちゃんと持っているわけ。そうでなくて、いきなり昭和20年の8月にソビエトに攻め込まれたでしょう。
今までは、日ソ不可侵条約でソビエトは来ないと思っていたのに、急にやられて攻め込まれて、方々の兵隊さん達はみんな山で作業をしたり演習をしてたり、そのままだから着たきりすずめだよ。
僕なんかは見習い士官だったから軍装を持ってたらかね、非常に良かったんだけども。兵隊さんなんかは洗濯したら裸になっちゃう。
それでずいぶん影響を受けたと思うんですね。向こうは被服の交換はくれなかったですね。だから、しらみが湧くわけ。兵隊さんにね。僕なんかも湧きましたよ。僕なん
かはまだ極力洗濯して乾かせたから。
  本当にひどいのは発疹チフス、チフスね。あれが発生しだしたら、蔓延するわけです。それによっての死亡者、まあ栄養不良のところにもってきて、そういう発疹チフスが昭和20年の11月の終わり、12月入ってからかな。次第に増えましてね。

 見習い士官で山に行かない人は、「亡くなった人を何人かで山に持っていって、埋めなさい」と。僕なんかも何人かを埋葬しました。
埋葬するったって、寒いから凍っているでしょう。いきなりはシャベルもつるはしもかからない。遺体を周りに置いておいて、埋める所に午前中はどんどんどんどん火を焚いて、一尺くらい掘れたかな。何人も亡くなっちゃったわけだから、一尺では足りないから、またその上に火を焚くんだけど、日が暮れちゃうじゃない。だから適当なところで火を焚くのをやめて、遺体を埋めて、悪いけど踏みつけましたよ。

 兵隊さんで。1000人収容所に収容されて、私の記憶しているだけで343人は亡くなったと思うんです。
 始めのうちは、一人なくなった時、手首から手を切ったんですよ。切るものが無いから伐採用のナタで切ってね。「その人の遺族に骨を持って行こう」ってことで骨を焼いたのね。そしたら、それがなかなか骨にならない。ならないですよ、ちょっとした焚き火なんかじゃ。で、朝から行って埋めて、ようやく骨にして帰って来て。
はじめ2人か3人はそうやったんですけど、みんな苦労するもんで、後は小指と薬指の2本を切り落として、これを缶詰の缶に入れてペチカの中に一晩置くわけです。
そうしたらちょっと移動があった。移動する人がそれを首から下げて集まったわけですよ。そしたらロシアの人が「あれは何だ」っていうわけです。「それは自分達が国から国へするから、個人ではできない」と、随分そこで取られたのがありました。
それが必ず帰っていれば良いけどね。それで箱を辞めて布にくるんでね、こういう襟の奥へ縫い込んだり、袖に縫いこんだりして持って帰ってきました。私は一体だけね。

 どういうわけで僕が帰れるようになったかだって分からない。
急に、「お前帰るんだ」って貨車に載せられたわけですよ。なにしろチタの町からナホトカまで来るまでに10日くらいかかりました。あっちに止まりこっちに止まりね。で最後にナホトカに来て、ナホトカに収容所が3つあるんです。第1収容所、第2収容所、第3収容所をぐるぐる廻って、その間共産党の教育をする。で、日本の船がナホトカの港にきて、船に乗って初めて出発して、岸からね、徐々に船が動いた時、「あー、初めてこれは帰れたのかな」と思いましたね。

 で、舞鶴で3、4日いたかな。僕なんかは、172センチくらいで48キロくらいだったかな、ずいぶん痩せていたんだね。で、舞鶴で貰った金は300円なの。300円しか日本政府は渡さないよって言ったの。300円は貰ったんですけどね。いつもの浦和の駅に降りたら、まあまあ駅はそのままだったし、これは無事だったんだなと思って、電話かりて「今帰った」って言ったら、向こうでびっくりしていた。そうして家に帰ったわけです。

1947年10月30日帰国。


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