「戦場からの証言」証言者の兵歴
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◆藤岡 明義さん

生年月日:1915年(大正4年)
所   属:陸軍   ■兵   科歩兵砲
最終階級
戦場地名
▲1940年(昭和15年)12月〔25歳〕応召……第4師団歩兵第37連隊所属:中国中部に派兵
△1942年(昭和17年)〔27歳〕…1942年 疾病により応召解除
▲1944年(昭和19年)6月〔29歳〕再応召……比島派遣・独立混成第55旅団所属:
                          フィリピン、ホロ島
△1945年(昭和20年8月末〔30歳〕…投降。
                      ミンダナオ、レイテ、ルソンの各収容所に送られる。
帰国年月日1947年(昭和22年)10月〔32歳〕:収容所生活を経て帰還


 戦場証言※証言者の言葉を忠実に文章化しています。

1940年(25歳)応召
所属:
第4師団歩兵第37連隊所属 
配属地域:
中国中部


 中国人の住民を拉致して連行するんです。で、戦闘そのものに使うんです。
彼らの寝込みを襲ってね、うちの中隊だけで30人ぐらいやから全体では100人かもっとおったかもしれない。
 私は歩兵連隊やったけれども、歩兵砲と言って馬を持っている中隊なんですね。馬に大砲と車を引っ張らして、車には弾薬を積んで、それで戦う。
 どうしても馬が行かん時には、降ろして分解して兵隊が部品を担いで行くんですが。それが、今度行くところは湿地帯で馬も車も行かんというんですよ。 そんな、馬も車も行かん所に歩兵砲が行けるはずがないでしょう。
 けれど車に乗せられてどっか連れていかれて、そこで私達初年兵は飯炊きやとか 洗濯とかさせられたけど、古い兵隊達はそこから町をがっと囲んで、寝込みを襲って、男という男をみんな引っ張ってきたんですわ。馬の代用ですよ。

 ところが彼らを食べさす術が無いわけです。僕は初めて戦争に参加して、初めての日に目の前で隊長がやられた。
僕らの中隊は隊長を失って仕舞ったんですよ。
  その時分日本の新聞なんかでは日本軍は強くて、中国人は弱くてという事ばかり言っている訳ですけど、ところが強いというか向こうの撃ってくるのが激しいんですよ。すると、彼らは寝込みを襲われて引っ張って来られたんだから、逃げよう逃げようとしている訳ですな。
それを逃がさんように、僕らみたいな初年兵は監視しなければいかん。
  それで、暑い中彼らも荷物を担いで行く。すると飯を食わす間がないんです。僕らの方は弁当を部隊の方で炊いて来ていますけど、彼らには飯を食わせる術が無いわけです。
  適当な時間になったらそのへんの部落を占領したら、そのへんにものがあるやろうから、それで食わしていこうと思っていたんだけど、食わすどころやない、隊長までやられてしまう様な激しい戦闘ですから。

 それで戦闘になると彼らに逃げられたらあかんから、こちらは一箇所に固めるわけです。そうすると彼らは固まっているから死傷が多いんですよ。
僕らは散開って言って一人が5、6メートルの間隔を置いて広がる。彼らはそんな教育を受けていませんからね。また日本軍がそんな事をさせないですよ、逃げたらあかんからね。だから日本軍より彼らの方がずっと戦死率が多い。
そこに来て、彼らを食べさす事が出来ない。もう、ふらふらになっているんですな。
それで、水を飲みにやらしてくれとかね、トイレ行かせてくれとか言うんだけど、それでその辺の草っ原にかがんでそのまま逃げられたらかなんからね、それもやらされない。
  彼らは水筒を持ってないから、暑い最中でしたからね、水飲めないんですな。クリークがその辺流れているんですよ。その水を飲ませてくれってせがむんだけど、それも飲まされない。水飲みにやらしてそのまま逃げられたら困るからね、それもやらさない。
それでもう、ふらふらになってね、倒れるでしょう。そうすると、こっちは銃を持ってその倒れた中国人をね、バーンと殺してやればまだまし方なんで、バーンと音をさせたら、もの凄く敵と接近してるでしょ。日本軍がそこにいるという事が分かるもんですからね、「音をさすな」って言う訳ですね。音をさすな・・、なら倒れたらそこに放っとくかと言うとね、
「放っといたら日本軍の状態が敵にもれる。だから生かしといたらいかん」って言うんです。生かしといたらいかん、鉄砲で撃つな、結局どうするかと言うとね、銃でもって頭を勝ち割る。これは、もう、見られたものでは無いですわ。
 これは、もう・・・、さすがに目を背けたね。銃床でね、バーンと頭を叩き割られて死んでいる。沢山見ました。そういう事があってね・・・、僕はもう、初めて、初めての戦争やったから・・、古い兵隊はそんなの慣れとるから、知ら〜ん顔しとるんですよ。
僕は初めてでしたからね・・・、あれでしたな。

 毎晩こっちは夜討ちばっかりなんですよ。向こうも待ち受けているからね、昼はまともにやれない。激しく抵抗してね、こっちも前に進めない。だから、毎晩夜襲ばっかり。声を出さないように、敵の後ろへ行ってね。

 僕らは彼らの事を苦力(クーリー)と呼んだんですよ。そんなんで、苦力が段々減ってくる。すると、彼らが倒れたらね、彼らの担いでいる物は僕ら初年兵が担がなあかん訳ですよ。これはひどいところでね。「落雀の暑」と言われるところなのですが、華南から、もう他所の部隊に付いている苦力をね、こっちに引っ張って来るんです 。
これ担げって言ってね、日本軍同士で苦力の取り合いが始まっているんですよ。

藤岡さんは、1942年(昭和17年)〔27歳〕疾病により応召解除となる。


 戦場証言※証言者の言葉を忠実に文章化しています。

【フィリピン地図】

フィリピン ホロ島は、南フィリピンの端位置し、その位置関係が戦略的価値(海上交通経路の要所として)があったとされていました。そのため、臨時編成ながら1個旅団(第55旅団)が配備され、アメリカ軍も上陸することになったのです。
  ホロ島に配備された日本軍将兵6,000人のうち生還した者わずかに80人。アメリカ軍との戦いに三分の一が死し、三分の一がマラリアに斃れ、残り三分の一が恐るべきモロ族に殺害されるという、南方の中でも最悪の玉砕戦場と言われています。

独立混成第55旅団の編成は以下のとおり。
◆旅団司令部 
  旅団長:鈴木鉄三少将 166名
 ○独立歩兵第363大隊:994名
 ○独立歩兵第364大隊
 ○独立歩兵第365大隊:995名
 ○旅団砲兵隊:362名
 ○旅団工兵隊:184名
 ○旅団通信隊:178名

1944年6月(29歳)再応召
所属:
比島派遣・独立混成第55旅団所属 
配属地域: フィリピン、ホロ島


 1年半ぐらいたって、また再応召が来た。今度はフィリピンです。一番南の端、これ以上南はないという南の端のホロ島という小さな島、同じフィリピンに行った
兵隊でも殆ど知りません。日本で言うと淡路島や佐渡島ぐらいの大きさの島ですが、このうち四分の一ぐらいしか日本軍は確保していません。そこで陸海軍併せて6000人全滅して、1名も生存者なしと日本の新聞には出たらしいんですよ。
  ところが実際は僕らを含めて88人生きて帰ったんです。戦争は終わってるのに何しとるかと言うことでね。

 その時に、僕らがあれだけ6000人も死んで1名も生存者なしと言われるぐらいにやられたと言うことは、大方は原住民にやられた訳です。
米軍は空からと下からと近代戦です。アメリカ軍は完全武装ですけど、彼ら原住民は裸足ですよ、裸ですよ、腰に蛮刀を一丁下げているだけです。
それに皆首を切られて死んだ。あれはね、アルカイダと同じ派なんですね。イスラム真理派、今でもアブサヤフって言ってね。
僕らは何で彼らにあんなにやられるかっていう事が分からなかった。
声も立てない、音もさせない。一番前の歩哨線を潜り抜けて、どっから入ってくるのか知らんけれども、中の隊長がやられるというような戦法です。彼らにどうし
てあんなに負けたかと言うことは、僕らは格好が悪くて日本に帰っても言えなかったんですけど。
 可哀想にね、皆帰りたかったんだけれども・・・、あそこで・・・死んだ。
僕は 「あれは本当に犬死だなあ」と思っていたんですよ。全くの犬死ですわ。
もうちょっと敵とまともな戦争にでもなってるんだったら良いけど、やられっ放しですからね。
ようするに野垂れ死にというか、敗残・・。最期はみんな本当に敵と戦ってと言う事やなしに、腹が減って、ふらふらになって、それで彼らに首を切られて死んだ。
  始めからまともに武器をくれていないんですよ。食べるものなんか全然無い。薬も無い。そんな兵隊をあんなところに人間だけ放り込んでおいてね。
ルソン島の第14軍の本部に向けて、「敵上陸シツツアリ」という電報を送った。その返電、「ご健闘を祈る」。それだけなんですわ。勝手にせいという訳ですな。見捨てられた。
あんな所で見捨てられてね、食料も貰わず、敵と闘う武器すら貰えないで、それで最後は「ご健闘を祈る」・・・。
  もう、それは、皆情けなかったですよ。

 ホロ島の日本軍は全滅したと報道されたが、6030名の戦没者、そして、生還したのは藤岡さんを含め、88名であった。

1945年8月末 投降。
ミンダナオ、レイテ、ルソンの各収容所を経て1947年に帰還。


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