「戦場からの証言」証言者の兵歴 | ||
|「戦場からの証言」証言者の兵歴|太平洋戦争年表|地域別の戦闘・作戦|主要海戦航空戦地図| | ||
◆多田 清さん |
■生年月日■:1913年(大正2年) |
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【満州】 現在の中華人民共和国東北部に位置する。1932年(昭和7年)日本政府は満州事変(1932・9・18)は日中両国間の問題であるとの立場から国際連盟理事国の警告を無視して3月1日「満州国」の建国を宣言。国家 元首には清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀就任した。1934年、満州帝国となる。以後1945年まで成立した国家。日本関東軍により、日本の大陸進出における重要拠点となった。 |
戦場証言※証言者の言葉を忠実に文章化しています。 |
1933年(20歳)現役 所属:独立守備歩兵第3大隊 配属地域: 南満州大石橋 鉄道の警備に当たる部隊でした。夜中じゅう鉄道線路の上の寒い所を鉄砲を担いで歩いて、というのは鉄道の橋を馬賊が壊して列車が転覆をする。転覆した列車から略奪に行く。だから私達は馬賊の出てくるのを早く調べて、捕まえるか先にこっちから行くか。寒い中をねえ。雪の上を踏んでも音ばかりするんですね。キュキュキュッ、キュキュキュッ、キュキュキュッって。それを一晩中歩かされるんだからね。 当時の満州は馬賊があちらにもこちらにも出てくる。金日成とか馬千山(ばせんざん)とか赤槍会匪(こうそかいひ)、これらがあちらに出没、こちらに出没。それらを追撃するのが私達独立守備隊の任務でした。赤い槍の端に房をつけた赤槍会匪(こうそかいひ)というのがいましてね。これは強かった。特別戦争をする技術が強いわけではないんだけど命しらずなんです。こっちは鉄砲で撃ってるのに、向こうは槍で来るんですから。こっちの中に入られたらこっちがみんな突っつかれる。 ただ私が運が良かったのは、張学良を日本軍が追放しまして、残りに自動車が7.8台ありました。その自動車を私の部隊が引き取って、私が勤めていた時の自動車の経験を生かしまして、6台の自動車、乗用車・サイドカー・トラック・装甲車をお前一人で動かせと言うことで、偉い人が来ると乗用車でお迎えに行く、中位の人だとサイドカーでお迎えに行く、普通の兵隊さんだとトラックに10人20人載せて送り迎えをする。敵がいて危ない所だと装甲車を運転して敵の中へ突っ込んでいく様な危険な場合もありました。鉄砲の弾が右から通って左から抜けてしまう様な悪い鉄を使った自動車だった。それを知らないで安心してこちらは乗ってた。上手く自動車の担当を受けて4年間任務を果たして帰ってきました。 1936年 除隊 |
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【支那事変】 満州国の成立、華北への傀儡政権の建設工作(華北の分離、満州国化)などによる進出を通じて日中の関係は悪化していき、1937年(昭和12年)の盧溝橋事件から1945年(昭和20年)8月15日の終戦まで支那大陸(中華人民共和国)にて日本軍が華北から華南にいたる地域を占領。首都南京占領時には南京大虐殺を引き起こした。 一方、中国共産党と国民政府は抗日民族統一戦線を結成し、国民政府は重慶にうつり、徹底抗戦をとなえた。 ほぼ、中国全土を日本が制圧したのだが、日本軍の支配は沿岸部を中心として大都市と鉄道の「点と線」の支配にとどまり、戦線は膠着状態に陥っていた。そのしばらく後に日米戦争勃発、圧倒的物量差の前に、日本はアメリカに敗北したが、連合国への降伏時、中国戦線でも制空権を失うなどして後退に入っていた。 |
戦場証言 |
1937年 再応召 所属:麻布3連隊 配属地域: (上海、南京、南昌) 半年もたたない内に又召集令状というのが来まして、今度は麻布3連隊という歩兵連隊。上海の海軍陸戦隊が危ない、これを応援しろと言うことで上海の敵前上陸。「満州で経験しているんだからお前らが先に行かないと新しい兵隊が動かないから」って言うんで、私達の仲間はどんどんどんどん先に進んだもんですから犠牲者も多く、ここで随分我々の仲間がいなくなりました。非常に頑丈な砲台が作ってあってそれでみんなやられました。上海だけで済むのかと思ったらとんでもない、その先に行ったらクリークだらけ。蘇州、そして南京へ、南京で一服したと思ったら今度は武漢三鎮へ進撃だ。揚子江を遡って、九江に上陸をして、一番の難所であった濾山を攻撃したわけです。 自動車は、倒れた人を現場から後ろの野戦病院まで運ばないといけない。道路が普通の道路では無いんですよ。もうでこぼこの馬車しか通らない所を、こちらは体をぐらぐらさせながら自動車を動かす訳です。乗っている人も可哀想。一番気の毒だったのは、濾山の戦闘、非常に敵が強くって日本軍の負傷者がたくさん出きた時の事なんですが、やられた人をすぐ軍医が診てくれる訳なんです。何処をやられたんだというのを診て、お腹をやられていたら助けようがないんですね。後ろまで抜けちゃっていたら未だいいんです。途中で弾が止まっている奴はどうしようもないんです。兵隊は銅板で出来た認識票というのを首に下げていて、それを調べると口がきけなくても何処の誰べえが、と言うことがすぐ分かるんです。お腹をやられた。もう駄目だなとなると、開いて中へ古くなっているガーゼを中に入れて縫って普通のお腹の大きさにして運び出すんです。本人は分からないんです。虫の息ですから、中に何を入れたか分からない。何か入れないと余りにぺちゃんこになって運びづらいから入れちゃっている。そこに落っこちている血の付いたガーゼなんかをね。本人は未だ病院に帰って何とかしてもらえるなと言うような考え方でいるけれども、私は見ている訳です。こりゃ、もう駄目なんだと。本人はお腹はやられているけど、頭はしっかりしていると、「おい、多田、しっかりやれ!」なんて威張っちゃっている。で、病院に行っても看護婦がもう駄目だと。 南昌に駐屯をしている間に、私はアメーバー赤痢という考えてもいなかった病気にかかりました。もう体も衰弱しちゃって、腰掛ける椅子の下にお尻に合うように穴を開けて、食べたものは全部お尻から出て行って仕舞う。リバノールという黄色い消毒の薬がありますが、それっきし薬は貰う事が出来ない。無いんです。それで2週間、腰掛けたまま、リバノールだけで、これも運が良かったんですね。また戦闘に復する事が出来ました。 1940年 除隊 |
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【独立自動車42大隊】 1941年(昭和16年)秋、東京世田谷で編成された自動車隊(通称名1038部隊) 【東南アジア地図】 【南方作戦】 1941年(昭和16年)12月8日海軍は真珠湾攻撃。陸軍は南方マレー島コタバルに上陸。真珠湾奇襲で米艦隊を壊滅させ、フィリピンとマレー・シンガポール、香港を占領、次いで蘭印(現インドネシア)を押さえて、石油資源を得獲得するという作戦である。それらが順調に進めばビルマをを攻略占領し、中国軍に対する援助ルート(援蒋ルート)を遮断しようとした。 当時の陸軍は51個師団、空軍2,500機、戦車1,800両、将200万の陣容のうち、南方には11個師団と2個飛行集団が当てられた。広大な攻略占領地域には少ない兵力だが、日本軍の大部分は中国大陸(支那派遣軍)満州(関東軍)に配属されていた。 昭和18年春頃から、南方海域では米軍を中心とした連合軍の猛反撃が開始されていた。 更に同年4月18日、「連合艦隊司令長官・山本五十六大将」の戦死後は益々その勢いを増し、 ニューギニア、ソロモン地区の占領地域では、連行軍の猛攻撃に敢え無く奪回され、我が軍は玉砕・敗走を重ねていたのである。 大本営は、昭和18年9月30日 「今後採ルヘキ戦争ノ指導ノ大綱」(絶対国防圏構想)を設定し、その防衛圏維持のため、既に満州等に配置されていた部隊を、南方に転属させたが、1943年春頃から、南方海域では米軍を中心とした連合軍の猛反撃が開始され、この圧倒的な兵力により日本軍は玉砕・敗走を重ねていったのである。 |
戦場証言 |
1941年 再応召 所属: 南方派遣 自動車1038部隊 伍長 配属地域:(ベトナム、マレイ、シンガポール、ニューギニア) すぐに「いらっしゃい」と召集令状が来て、3回目のご奉公と言うことになりました。今度は南方へ行く自動車部隊の編成に入った訳です。 軍隊に自動車はもう一台も無いんですよ。どうして1038部隊が出来たかって言うと、街のトラックを軍隊が買い上げたんです。日通なら日通っていうマークが入っているやつを消して、茶色にしてそれで持って行った。代々木の練兵場で私達が見て、「あっ、これ動くからいいですよ、これも動くから良いですよ」って言って、民間から買い上げるのに、1台十円です。トラック1台が十円ですよ。軍隊が買い上げるんだから、仕方がないんですよ。 最初に到着したのはハノイ、ハノイからハイフォン、そしてサイゴンと南下していくわけなんですが、サイゴンで隣がフランスの兵隊、こちらが日本の兵隊と仲良くやってたんですが、えらい人から「フランスの兵隊を全部まとめろ、そして小学校の中へ閉じ込めろ。抵抗すれば撃ってよろしい」と命令が出た。どうして平和進駐で仲良くしているのにそういう命令が出たのか私達下級の兵隊には分からなかった。二日ばかりたったら、初めて日米の開戦、英米を敵にするんだ。マレイへ進撃しろ。マレイに敵前上陸したら、その後はシンガポールへシンガポールへと約1年がかりでシンガポールへを占領することが出来て、私達もようやくシンガポールで一休みする事が出来たわけです。その間に内地から映画会社が来て「シンガポール総攻撃」の映画を撮るから私の部隊に手伝ってくれという事になって、もうひとつ「マレイの虎」と二つの映画を約1年かかってお手伝いした訳です。 その頃までは順調と言うのか、苦戦をしながらも上手くいってたわけなんですが、ジャワ、スラバヤ、ボルネオは未だ良かった。ニューギニアまで行ったらもう駄目でしたね。どうしてあんな事をするかと思ってね。偉い人は何を考えておったんかね。 部隊の本隊はパラオで待機をする。私と部隊の副官が「道路があるかないか良く調べろ」という命令でニューギニアでいうと一番東の方のマダンという所まで調べたんですが、何しろ道路なんてあるわけ無いですよ。あんなジャングルばかりの所。今だったら偉い人に「冗談じゃないですよ。ニューギニアに道路があるわけ無いですよ。」ってすぐ答えられるけども、その当時はこっちも「はいっ」て言うよりしょうがなくて、調べにいくってね・・・。 ニューギニアで一番困ったのは食べ物ですね。私はいまだにお魚で鰹は食べないです。朝が鰹で、昼が鰹で、夜が鰹。ご飯が日本から来ないんですよ。ご飯が日本から来ないで、食べるものは歩きながら葉っぱを、新芽を摘んで食べながら歩くという状態ですね。鰹は馬鹿なんですよ。ちょっと針金を曲げて降ろすとすぐひっかかる。それを上げて、小さな刀でさばいて、海の水でぱらぱらとやって食べる。何しろ日本からは何も来ないんだから自分で工夫するより仕方がない。葉っぱも古い奴は固いから、新芽、新芽を口に入れながら歩いていく。蛇とかネズミとかいりゃあ、ごちそうさまなぐらいで。間違って川の畔でワニに食いつかれたなんていうのも出来ちゃうわけです。南方の事情なんていうのは知らないのが行くんだから。常識がないのが・・・、あんなにね〜・・・、偉い人は何を考えていたんですかね。 パラオに帰った途端に日本軍が不利になって、戦死者が沢山できちゃったんです。その遺骨を誰かが持って帰らなければならない。私がお預かりしたのが2000柱。日本に輸送船で潜水艦に追われながら帰ってまいりました。「ご苦労であった。またニューギニアに行ってよろしい」と言うことで横須賀に行くと船が出ない。宇品に行って船を捜す。宇品に行っても船が出ない。今度は下関に行って船舶司令部に行く。これも船が無いよと断られる。結局「お前ら古い兵隊10名、在郷軍人になってアメリカが上陸してきたらどうするか良く考えろ」と言うことで、1944年の末に家に帰る事が出来ました。 (1944年 遺骨宰領帰還、除隊) 逆に私の部下はニューギニアに入れ違いで行って、誰も帰って来ない。私も遺骨を持って帰らなければ同じあれになっちゃっている。1人病気で帰ったのがいるんですが、それの話しを聞くとね、彼は靴を食べたって。軍隊の靴を。川を渡った所でくたびれて、ぺろっと動けなくなって、死んじゃった。そしたら残るのは靴が残った。その靴をね、あれ、牛の皮ですからね、小ちゃく切って口の中に入れていると、ガムみたいにぐちゃぐちゃ噛んでいる内にお腹に入っていく。他に食うものが何にも無い。だから兵隊が誰か死ぬのを待っている。死なないと靴が余らない。そういう計算なんですね。 そのうち8月15日の玉音放送を聴いて、ああこれで戦は終わっちゃったんだ、いよいよ負けちゃったんだ。当時刀を持っていたものですから、刀を振り回して小学生に竹やりを教えていたのが、なんか気持ちが腑抜けになっちゃって私は1週間ぐらい何をやってたか分からなかった。しかし、家内に聞いてみると、「あなたは1週間ぐらい刀を振り回して、毎朝、朝から晩まで刀を振り回して、危なくって私も子供も近くへ寄ることも出来なかった」って言うぐらい何か頭が少しおかしかったらしいんですけれども、自分ではうろ覚えで、まあ本当の終戦を信じるまでは時間がかかりました。もう、根っからの、兵隊さん、兵隊さんで過ごしてきた当時の事ですから、今考えてみると「ああ、そうかなあ」というのが実感です。 |
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