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ここんトコのウラ日記
過去のウラ日記

◇◆◇◆◇◆◇◆2006.2月某日ウラ日記ミクシィへ引越します。ぢゃ!また会いませう!◇◆◇◆◇◆

原爆二世の宿命か?
2006年1月11日、友人の沢口友美さんが白血病で亡くなりました。病気が分かってわずか半年。年末に骨髄移植も済み、これから闘病、回復への活路が見えていたと思っていた矢先の出来事でした。享年44歳。

亡くなる2日前に危篤の報を塩見氏、古澤氏、はが姐さんより聞き、翌朝新幹線で広島、呉 へ。
「YAMATO」一色の呉にいたたまない気持ちになりながらも、一早く呉に着いていた犬塚氏と呉駅で会い、病院に着くと、「臓器の機能が停止して、薬物治療も効かなくなり、無菌室から出されて何時でも家族や友人に会える様になった。つまり、…。昨日までは何とか返事は出来たけどもう、思うように返事が出来ないみたい。声は聞こえているから話しかけてやって。」犬塚氏からそう言われ、その傍らでは徹夜で看病し続けて、心身ともに疲労しきっている妹さん、お母様お父様の姿を見て、やっと事の緊急湧き上がって怖くなったのを思い出します。静まり返った病院内も陰気で恐怖心を助長していました。

病室の前で手を消毒し、マスクをかけて病室に入り、目の前に見えたのは移植後の拒絶反応〜臓器機能停止〜尿毒素を排出できなくなって黄疸によって土気色となった身体は浮腫み、手や足に水ぶくれができ、痛々しく全身で懸命に息をしている彼女の姿でした。なんで半年ぶりの再会がこんな形にならなきゃ。彼女に一歩一歩近づく度辛い、こんなふうに会うために着たんじゃないという思いでした。
眠っているのかも、起きているのかも分かりませんでしたが、治療によってぬけた髪の毛をカバーするため、頭にバンダナをまいた酸素マスクで覆われた彼女の耳元で「サゲハシです。来ちゃいましたよ、今年もよろしくお願いしますね。」ショックのせいか声も良く出なくてなにを言ってるんだかと思い起こすのですが、あの時はその言葉が精一杯。かすかに瞬きしているのは自分に気付いたのか、一連の動作に過ぎなかったのか分かりませんが自分が来たことに気付いたと信じたい。

しばらくして、犬塚さんと同様に前日呉に着いていた古川さんと会い、自分の後に続いて東京から駆けつけた中村さん、塩見さん、はが姐さん 古澤さん、本多さんが到着。各々懸命に励ます声を病室の外から聞いて「大丈夫、皆来たんだから、もう大丈夫」とすがる様に念じてはいたものの、妹さんから今までの経過を聞くにつれ、受け入れなくてはならない現実を叩きつけられてしまいました。

その日に帰らなくてはならないはが姐さん 古澤さん、本多さんはギリギリまで病院に滞在し帰京。
鈴木さんの到着が遅れ、待っていた中村さん、塩見さん、自分は呉に泊まる事に。鈴木さんを待つというより、何故か帰ることが出来なかった。
翌朝9時に病院へ、朝で音楽も流れていたせいか、今までで一番穏やかな表情でした。丁度朝の検診で検温の際、身体を動かすと痛いらしく、痛そうに顔をしかめて辛そうでした。看護婦さんに聞いたところ、悪くはなってないが良くもなっていいない、横ばいの状態です。と言われたものの話しかけると昨日よりも反応が良い感じで、コミュニケーションは相変わらず取れないものの、塩見さんの大きな声にはうなずいているように見えました。
余り疲れさせてもいけないと思いおでこをそっとなでながら「明日はマサカリさん、木村さんに風見さんら女性陣がいっぱい来るから華やかになるよ、楽しみにしててね。」と言って帰京したのですが。
24時間もしない翌朝、沢口さんは亡くなってしまいました。
自分は会社のお昼休みに彼女のブログでマサカリさんの書き込みで訃報をしりました。泣きじゃくりながら塩見さんに電話し、すぐさま12日の告別式に行く為、休みを申請。
まだ手には微かに沢口さんのおでこの、頬の温もりが残る手を言いようのない気持ちで抱えながら再会ではなく別れをしに再び呉へ。
クィーンが流れる告別式場には親類の方、東京から駆けつけた友人、呉での学生時代の友人、娘さん、多くの人が彼女の死を惜しみ、冥福を祈りに来ていました。お棺の中の彼女は最後に会ったときと同じ赤いチェックのバンダナをしたまま、安らかな、でも何かを語りだしそうなお顔で、献花した時、そっと撫でたおでこは陶器のように冷たく、固く。
御骨上げまで見届けさせていただきました。焼きあがった御骨は白く、きれいで、しっかりしていました。
いろいろあるのですがまだ整理がつきません。

原爆二世であったがゆえの発病だったのかはっきりと分かりませんが 、だったらよりによって何故彼女がその60年前の負を背負わなくてはならなかったのか?今、死んではいけない人です。腹立たしい。納得が出来ない。


◇◆◇◆◇◆◇◆2005.11月某日戦場からの証言、こんにちは軍隊手帳◇◆◇◆◇◆

▲見ろ!これが軍隊手帳だ!


▲細部までの行動がギッシリ!
 しかもかなりの達筆!
感動です。
戦場取材を始めて早一年。へタレながらも小生およそ30人強のジジ…いや元兵士の方の取材をさせて頂きましたがとうとうご対面です。
←軍隊手帳!
インタビュアーの元兵士井ノ口さんも感動!なにせ井ノ口さんだけでなく当時ほとんどの兵士は地域に関係なく、武装解除後、捕虜になる前に軍隊手帳をはじめ、書類や写真等の身元を証明するものを全て焼却してしまっている為、持っている人はめずらしいそうです。(終戦時兵士だった人)
保存状態もかなり良い 。背広の胸ポケット収まる。ベルトで閉じることが出来るし、ポケットもある、システム手帳といった感じでしっかりした作り。「ボクは燃やしちゃったよ〜ぉ…」と気を落とす井ノ口さんそっちのけでパシャパシャとカメラ小僧と化す
が、しかし!旧漢字ばっかりで…読めません(泣)
隊の中でも書記にあたる人が全員の手帳に記入していたそうです。ある程度の学力は勿論、字がきれいでなおかつ見やすく、誤植なく欄内にきっちりと行動の詳細を書き納められる様にしなくてはならない為、かなりの労力が必要。戦場の新たな一面を発見(?)
◇◆◇◆◇◆◇◆2005.9月某日新宿に響く歌声とある作家の死◇◆◇◆◇◆


▲血管がはちきれんばかりに熱唱するぴんきぃ氏と熱いながらもクールにギターを奏でる夏威様

三ヶ月ぶりでございます…
解雇〜無職〜再就職+引越しとバタバタし、そんな気分だったりでHP更新・ウラ日記更新をサボりまくっておりました。
HPは相変わらずノロノロと改装案を試行錯誤中…?Y(;=o=;)Y
20時からネイキッドロフトでぴんきぃ&夏威辰徳のライブ、21時からロフトプラスワンで鈴木邦男・斉藤貴男・森達也トークイベントという、Wブッキングイベントに行ってみました。

ノーネクタイスーツ姿で直立・全身を引きつりながらも一心不乱 に譜面と格闘しながら熱唱するぴんきぃクン(失礼!)のソウルギガマックスの凄まじい歌声、傍らで一見クールにギターを奏でる夏威様の二人には毎度ノックアウト寸前で聞き惚れ、パンチドランカー並のショックを頂いております。
彼らがどんな音楽を生み出しているがはコチラでチェック!根生乃塾HP
CDも販売されているので是非、一聴下さい。

21:45にロフト へ満員御礼の盛況ぶり。前の田原総一郎イベントの影響か?
創編集局長と斉藤貴男・森達也がトークを盛り上げる中、鈴木邦男さんはいつものように中華おこわをモグモグ、枝豆をパクパク…。

プラスワンのイベント終了後、写真家の平早勉氏に珈琲をご馳走になりながらショッキングなニュースを知った。作家の見沢知廉氏が死んだという。
事務所によってネットで調べてみると、本当だった…
<訃報>見沢知廉さん46歳=作家 飛び降り自殺か
獄中をリアルに描いた小説「調律の帝国」などで知られる作家、見沢知廉(みさわ・ちれん<本名・高橋哲央=たかはし・てつお>)さんが7日、横浜市戸塚区の自宅マンション8階から転落し、死去した。46歳だった。神奈川県警戸塚署は飛び降り自殺とみている。葬儀は近親者のみで行う。自宅は同区俣野町1403、ドリームハイツ20の806。喪主は母高橋京子(きょうこ)さん。
 82年、新右翼としての活動中、「スパイ粛清事件」などで逮捕。実刑判決を受け、服役した。獄中に発表した「天皇ごっこ」で新日本文学賞受賞。
(毎日新聞) - 9月8日12時40分更新

最近お会いしたのは去年の野村秋介先生の11回忌の時。秘書らしき人と共に現れたのが生前最後の姿だった。

先月の木馬亭のイベントには急病で出席せず、「またドタキャンか」と軽く受け流したものの。その頃から前兆があったかのかは今では知る事も出来ない。
鈴木さんの話では来週にはトリックスターライブ塾に出演に備えていたそうなので突発的な事故かも知れないと言っていました。
それにしても今回の急な彼の訃報には驚きと恐怖が入り乱れた。
見沢氏の苦難の闘病生活・半ば筆を折られたような思うように行かない執筆活動を人づてに聞いてはいました。これといって特に見沢氏と交流があったわけでは無いのですが、彼の冥福心よりを祈り、生前彼が書いたまだ発表されていない作品が一つでも日の目を見ることを切に願う。 合掌。

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.6月某日朝風の会:熱海で取材サバイバル◇◆◇◆◇◆

毎度お世話になりっぱなしの朝風の会主催熱海温泉旅行(ハートピア熱海)にお招きいただいた。
しかし、結局「戦場からの証言」取材協力がメインとなり、朝風の会の皆様にお世話になりっぱなしで、またまた甘え三昧となってしまった。
老兵集結!このチャンスを逃すな!死なないうちに撮っておかなくてどーするぅ!」との使命感には勝てず、図々しくも取材を決行!
こうして老兵との一泊二日のスリリングなアバンチュールは幕を開けた…

藤倉 勝三さん
  (1922年生:83歳)
△1936年(昭和11年)応召
▲陸軍・歩兵一航空兵(地上)歩兵
△728部隊歩兵として中国満州へ。
▼1945年(昭和20年)12月シベリアのケーメルポ市にある捕虜収容所へ
▼1948年(昭和23年) 6月15日帰郷


満州錦県で玉音放送を聞いたあの日(終戦日)
背丈を越す程生い茂ったコーリャンが風に揺れ、
ふと見上げると、青空には積乱雲と赤トンボ(飛行機)が舞っていた。
兵隊たちは皆、意気消沈を装いながらも言いようの無い開放感に満ていた。

  満州錦県の元飛行場にて武装解除。1945年10月より、ソ連邦ケーメルポ市にて抑留。炭鉱での採炭、集団農場作業に従事。
坑道を支える木の柱にお金を掛けない現場は落盤事故が多発、 藤倉さんも負傷した。
「健康診断の前夜に少しずつ貯めていた岩塩を一気に摂取、顔を浮腫ませて病気を装い、何とか採炭からはずされ、農場作業になるよう細工した。」
ドイツ兵と共にでの抑留生活のなかで、捕虜でありながら毅然とした彼らの態度に驚かされた。
『パパ、ママ、イエス(両親はいるか)』と必ず家族の話を尋ね、大切に隠していた何の変哲も無い自分の家族の写真を嬉しそうに見せるドイツ兵らとは対象に、ロシア兵の顔色を伺いながら媚びへつらう日本兵。『タバコはないか?パンがあるから交換だ』と侘しい会話が飛び交う日本兵とのギャップを目の当たりにし、異文化と触れた藤倉さんは「シベリアは最高の教師だった。」と当時を振り返りながら語った。

▲耐えろ!取材を続けろ!
〔ハプニング其の一〕

取材中朝風一行ご乱入!
宿泊せず本日中に帰ってしまうとの事なので、一足先に藤倉さんの取材を開始する。
取材も終盤を差し掛かったところ朝風の皆さんがホテルに到着。一斉に取材会場(会議室)に押し寄せる。
あぁ、画面に映り込んでるぅ、音声がぁ…。悲痛で顔が歪みそうになる。
幸いにも当方らの取材にかける怨念退いてオーラを察知して頂き、早々に関を立って退場して下さいました。すいません、ありがとうございます。
 
▲総会を取仕切る谷田川さん
〔朝風の会総会〕
取材終了後行われた朝風の会の真面目な総会。
  全国から集結した18名の会員(元兵士)らに混じり、若輩モノである小生らも同席させて頂いた。
次世代へと戦争を語り継ぐ為の運動もすでに17年を向かえ、二つ目の節目を迎えようとしている。会員の高齢化に伴い、今後の機関紙発行の存続の為、新規会員の増員&後継者問題である。
  不戦兵士の会も会の存続するため戦後世代の会員を募った。朝風の会の同様の問題を抱えている。
▲やっぱ宴会でしょ!
〔ハプニング其の二〕

そんなに酔わせてどうするの!
取材、総会も終わり、さぁ…夜のお楽しみ!軽く温泉を堪能し宴の会に突入です。
ビール片手にお酌マシーンと化す営部は早々、天野さんに捕獲される。
総本部長・事務局長(それなりのお年頃の女性)は満蒙開拓少年義勇軍村西さんの勧めるままに浴びるほどの日本酒を呑まされ、総本部長撃沈…。
そんな各人の運命を尻目に小生はせっせと明日の取材相手の秋元さんらと談笑。平和な宴をすごしましたとさ。
 

 行きの列車の車窓から熱海の薄暗い太平洋が見えた。
 11:30熱海駅に着く。12:30待ち合わせと聞いて現地(ホテル)と思って電車の時間を捻出したのに駅に着いた途端、営業部長「現地じゃなく駅で12:30待ち合わせの約束をしたような…」っておい…。
確認したところ駅で12:30だという事が判明。っざけんなぁ〜駅で待ち合わせならちゃんと駅って言え!メールで電車の時刻を送った時に気づけぇ!と思いながらも、お互い言葉が一個足りないとひたすら反省(T_T)。
 宴会後、初代朝風会長久田氏らが当方の取材に受けてくれそうな人のリストアップを懸命にしてくれている姿を見てうっとり!粋なジジイとはこうあって欲しいものである。若人ども!見習え!


 しかし、あれ程耳にタコが出来るほど筆記用具を持って来い!といったのに何故持って来ない!久田さんの取材候補者をホテルの部屋の据え置きしているムーミンメモにチビチビと浴衣をはだけながらお構いなしメモる姿をみて悲しくなる。きっちり浴衣を着こなしている久田さんを見習って欲しい…。

 本郷さんのナイスキャラ!(中野さんに勝るかも…)、ジェントルマン久田氏&ゴーイングマイトーク秋元氏このツートップに圧倒されながら、熱海怒涛の取材旅行は幕を閉じた。明日から再び気を引き締めて頑張ろう!筆記用具は忘れずに!

久田 二郎さん
(1920年生:85歳)
△ 1940年(大将17年)応召、第116師団工兵第116連隊(嵐)工兵
▲常徳作戦で工兵、 湘桂作戦で
  通信兵として参戦
△中国安慶、岳隊、常徳、衝陽と
  中国大陸広域を行軍
▽中国湖南省宝慶にて終戦
  翌年7月、鹿児島に帰国


 東京の家族に連絡もとれないまま、独りで迎えた京都本願寺での出兵式。
家族との最後の別れを惜しんでいる兵の集団から離れ、一人佇んでいた私の背のうに一羽のハトが止まった。そのハトを見て
「これは良いことだ。私はこの戦争で死なずに、生きて帰ってこられる。」という予感を確信した


  久田さんが徴兵検査を受けた昭和15年当時、日本軍はすでに兵不足が深刻化。その為、それまで徴兵検査で甲種合格者のみが即兵役だったものを、待機兵ランクの乙種を2種に分けて第一乙種も即兵役に繰り上げていた。
東京に住んでいた久田さんは、簡単な手続きで東京で受けられるはずだったのだが、わざわざ生まれ故郷の滋賀県にまで徴兵検査を受けに行った。東京よりも体格の良い人間が多い田舎の方がランクが低く見られるだろうと推測。元々虚弱体質で声には出せないが戦争に行く気もなく、当時流行病だった「眠り病(熱病)」を患い、片方の耳の聴覚を失ったせいもあり、徴兵検査では第二乙種(待機兵)となった。しかし、当時は何時応召(赤紙)が来てもおかしくない状況であった。案の定、一年半後の昭和17年。召集令状が届く。
京都に移り、工兵としての第一期(三ヶ月)教育を受ける。教育期間が終了し、外地の戦場へ向かう前の健康診断で歯痛により、外地行きを延期される。が、当初乗って行くはずだった輸送船が米軍の潜水艦の攻撃を受けて沈没。歯痛によって運良く命拾いをした。
改めて中国に渡り、釜山〜上海〜南京〜安慶そこで第二期教育を受ける。 その後
中国安慶、岳隊、常徳、衝陽と 中国大陸広域を行軍。有名な常徳作戦では工兵、湘桂作戦(大陸打通作戦の一部)では通信兵として参戦。
中国湖南省宝慶で終戦を迎える。

秋元 実さん
  (1922年生:83歳)
△1942年(昭和17年)1月。教育応召(白紙)により、野戦重砲兵第3連隊補充隊に応召。 同年4月教育終了後引き続き臨時応召。
▲同年5月ラングーン上陸。
  11月にはチモール島へ渡る。
▲1945年8月16日に終戦を告げられる。9月チモール島からバンタル島、ロンブレン、アドナラ、フロレスと半死半生でスンバワ島に到着。
△昭和21年5月、復員船にて名古屋港に帰港。


「チモール島に日本兵23500人が食料を持たず上陸。畑は作ったが、
原住民の家の軒先に干したジャコム(とうもろこし)を奪って食べた。
日本兵が上陸したがゆえにその年原住民50万のうち4万人が餓死した。」

秋元さんは初め、赤紙ではなく白紙と言われていた教育応召にて三ヶ月間のみの軍事教練のみで除隊となるはずだったのだが、日本軍戦況の悪化に伴い引き続き臨時応召を受ける。
軍隊に入隊後、軍服・軍足等の支給品は紛失しても決して補給されない。どこから始まったかのかは解らないが兵舎内でそういった物品の紛失・盗難が相次ぐ、無くした物は他の隊から盗んで賄う、また無くなる、盗む、という『かっぱらい』の連鎖が往行し、物を盗むという罪悪感が無くなる。秋元さんは「物を無くしたとなれば古参や教官からこっぴどくビンタを食らうから競って盗み合う。そうやって皆、盗みの動作で俊敏さを身に着ける。兵隊はとろいヤツは死ぬから。」こうして良心は削がれてゆき、「兵一銭五里、馬三百円」と言われ、軍馬一頭あたり300円で買い取る事に対し、兵の命は召集令状(ハガキ)一枚分で集める事が出来る。つまり、兵隊は馬以下の価値とされ、徹底的に人間としての価値を否定される。いとも簡単に人から武器へと変貌させられるのである。

 「こっちが一発撃つ間に敵は十発撃ってくるし、大砲の飛距離も比較出来ないほど短い。敵は重車両でどんどん進軍するのに対して日本は馬との二人三脚での行軍。そんな、兵器・スピードの両極端物同士で無謀な戦争をしている事は兵隊は解っていた。」 砲兵としてシンガポール、ラングーンに配属。ガタルカナル島へ行こうとしたが、マッカーサーがチモール島へ上陸するとの情報があり、チモール島へ。ひたすら道路・陣地作り、現地人からの食料の徴発だけでは軍隊を賄い切れず、畑まで作る事に。そうこうしているうちに終戦を迎えた。「チモールには収奪しに行っただけ、我々が上陸したばっかりに島の住民を現地兵補として狩り出し、島民の一割弱を餓死させてしまった。」

「軍隊教育では兵隊に捕虜条約(ジュネーブ条約)など教えないから、捕虜の扱いを知らずに虐待する。生きて虜囚の辱めを受けず…というが、捕虜になったら、自分達がかつて捕らえた捕虜を扱っていたような同じ目にあうと確信すればこそ、虐待より死を選ばれざるえないと思い込むのは当たり前。教えられたのは殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす事…。」
秋元さんは60年前の自ら経験した戦場を振り返り、日本軍の事をヒューマニズムなき軍隊と語った。

本郷 勝夫さん
  (1923年生:82歳)
△1943年(昭和18年)11月召集
▲陸軍・中支派遣軍第13師団鏡6815部隊
  第一野戦病院(中国湖北省ケイモン) 衛生兵
△南京、徐州、ケイモン、武昌、漢口等中国二千四百kmにも渡る行軍を経験。
△中国湖北省
▼1945年(昭和20年)中国湖南省・ライオウの第一野戦病院にて3日遅れの終戦を知らされる。
▽1945年(昭和20年)10月〜翌年5月まで江西省長里湾の収容所に収監。1947年浦賀港帰国


「衛生兵としての教育は戦闘の合間、浮き足だつ中での20日間のみ。
野戦病院は治療をする所ではなく、並べて死ぬのを待っている。
コレラ患者に対しては、感染するといけないので触れてはいけない、水もやるなと命令が出た。
兵役中の行軍の移動距離は2300キロ、それも殆どが夜間だった。」

 役場に勤める同級生が申し訳なさそうに差し出す赤紙を「お前が決めたわけじゃないんだから、仕方ないよ。」 そう言いながら受け取った。徴兵検査では第三乙種合格。まさか兵役に就くとは思いもしなかった。徴兵検査では第三乙種合格だった本郷さんは、まさか自分が兵役に就くとは思わなかった。
仙台駅発の列車のデッキから郷里を見つめながら、「また帰れるのだろうか?」と不安な気持で出兵した仙台〜名古屋さらに出航地の下関に到着。どこに向かうか知らされないまま輸送船の船底に押し込まれ、出航となった。
南方に行くとの噂があったが、赤い河を見た古参兵の「上海だ」と
の声で中国に着いたと解った。
本郷さんと一緒に召集された85名の内半数近くが身障害者、身長158cm体重50kg未満であった本郷さんが上等な方で、戦地に着くまでの輸送途中で5名が死亡している。
1944年(昭和19年)一月に南京〜オウジョウ〜3月に慶門〜4月シンコウ着、ようやく行軍が終了する。作戦の配属編成があり、4月20日から20日間の衛生教育を受ける。
5月20日作戦に参加するため、クンコウから船で武昌、3日歩いていくと砲声が聞こえはじめる。さらに一週間熱く、水もない状態で険しい山道を歩く。限界を超える行軍を経てカント市に到着した。クリークで洗濯中、野戦病院から3キロ程離れた工兵陣地がP51爆撃機の攻撃を受け、しばらくして本郷さんの野戦病院に次々と負傷者が運び込まれるものの、満足な施設のない野戦病院では、処置の仕様がないまま多くの兵士が死亡した
 本郷さんの行軍は更に続く。糧秣(食料)が尽き、徴発と称した地元民からの食料の略奪を余儀なくされる。そうしながら、7月に3コ師団がかりの大きなコウヨウ作戦
に参加。
野戦病院には次々負傷兵が運ばれて来るが、薬も設備も無い病院は名ばかり、患者を受け取るだけで処置も出来ず、まるで『死への待合室』だったと語る。本郷さん達に出来ることといえば、「ホルガ」と称する米ぬかをビタミン剤として患者に与え、のり状のおかゆにおかずは塩のみといった粗末な食事をさせる事しかなかった。
 コレラに感染した患者にはこれ以上の感染を避けるため、軍医から患者に触ってはならないと命令され、看病は愚か水を求める兵士に水を与える事も出来ずに困惑した。
  コレラの患者は生死に関わらず一軒の家に集められ、そのまま家屋ごと火葬されたそうである。
「2年間衛生兵として野戦病院にいたが外科手術をした外科医を見たことはなかった。」最後にそう本郷さんは言い放った。
反転命令の途中ライオウに着いた昭和20年8月18日に終戦を知る。復員船を待つ期間、捕虜となり1947年6月上海港から浦賀港着。
しらみとのみだらけの毛布だけを持ち、家に辿りついた本郷さんを見るなり、家族は庭にゴザを引いてそこで軍服を脱がせ、風呂に入って着替えをさせた。
本郷さんの2年間、中国大陸二千三百キロにも及ぶ行軍を続けた軍隊生活がようやく終わった。

   
◇◆◇◆◇◆◇◆2005.6月某日戦場からの証言、多田さんもいっしょ◇◆◇◆◇◆


▲事務所より広い石原さん宅


▲沖縄戦を語る石原さん
 

▲右が多田さん、後ろは奥様
多田さんの」公園戦友会」の方の取材。あの、ノモンハン事変(1939年5月から9月にかけて、満州国とモンゴルの間の国境線をめぐり、実質的には両国の後ろ盾となった日本軍とソ連軍の間で戦われた短い戦争である。参加した軍隊は上記四か国のもので、モンゴルは、これをハルハ河戦争と呼ぶ。 また、日本軍がソ連の進んだ機械化部隊のために大敗した戦として、日本陸軍の愚劣さを象徴する事例にされてきた。五味川純平の虚構に満ちたベストセラー小説が、いつの間にか常識化してしまい、教科書にまで「ソ連は空軍・機械化部隊をくり出し、日本軍に死傷者二万人の壊滅的打撃を与えた」」(日本書籍・高校日本史)と書かれているほど。)に砲兵隊部隊長として参戦、その後沖縄戦線にも参戦したという経歴の持ち主。
◇◆◇◆◇◆◇◆2005.6月某日イベント打合せ2部構成◇◆◇◆◇◆

▲何の集団?微妙な組合せ

▲すきずきで好き好きに呑む
鈴木さん曰く、「わざわざ事前に打合せなんて面倒…」(この○×△…)
そんな司会者の戯言を無視し、7月12日に開催する我が戦放保会企画、「日本鬼子」上映会の事前打合せを決行。
 鈴木&野花嬢ペアはロフト最新刊の取材が終了し、そのままルノアールで待機していた。
打合せ定刻の5分前にメインの松井監督も登場。電話では何度か話したことがあるものの、会うのは初めてなので自己紹介交じりの挨拶を交わす。
 前日鈴木さんと「前会った時、下駄だったけど、松井さんまた下駄で来るのかなぁ?」と言っていたので「下駄はないでしょう、何言ってるんですか!」と会話したのを思い出し、失礼ながら監督の足元が気になった。下駄だった。マジだった。
そんなことはともかくとして打合せ。
※松井監督より「日本鬼子」短縮版の編集終了の連絡あり、104分との事です。
◇◆◇◆◇◆◇◆2005.5月某日戦場からの証言:取材陣多すぎ…◇◆◇◆◇◆

▲うまく噛み合わない人たち


▲取材同行最高記録樹立



▲今日の主役、白水さん

戦場からの証言の取材。

元々韓国MBCTV群が来ることになっていたため、自宅取材で無理と判明。
大勢での取材に快く引き受けて頂いた白水さんと奥様が、十分なスペースのある町内の会館(住民の集まりや行事で使う集会場のような所)を確保・手配してくれたおかげで一安心。

それにしても今回は…同行者多すぎ!賑やかだった。でも同行者は大歓迎だし、こちらも気か引き締まる。
まず取材陣側:白水さん、白水夫人(久しぶりの奥様同伴)
そして取材陣側:本部長、事務局長、営業部長、世論委員(多田さん、天野さんに次いで3回目)、フリージャーナリスト(ホンモノ)林氏、小生
さぁ、セッティングして始めましょうかとしたところ…
見た事のあるある白いセダンが会館の駐車場に乗り込んできた。
谷田川さんだぁ!しかもチームで来てるぅ!何故ココが判ったの?
「やっぱりこの人エスパーっだったんだ。」しかしそんな妄想も一瞬で立ち消えた。谷田川さん曰く、「いえね、ファックスで今日の取材のお知らせが書いてあったので、同じ町田ですし、村西さんもお誘いして、皆さんの取材しているお姿を見学させてもらいに来ました。(微笑み)」おぉ、そう言えば戦場メール&ファックスで今回の取材の日時と場所を公開してたのを思い出した。あらぬ疑惑が浮上するところであった。危ないアブナイ。
朝風チーム:谷田川夫妻、村西さん(満蒙開拓少年義勇軍で取材、町田在住)
谷田川(朝風)チーム登場によりちょっとした公開収録…
白水さん大丈夫かなぁ?と思ったが、さすが元新聞記者。堂々として証言を語る。
そんな白水さんのお話は…
戦争末期の昭和18年、学徒臨時応召。陸軍・歩兵一航空兵(地上)
中国戦線に派遣され、山東省張店飛行場にて強制連行の中国人を使って飛行場作りと保守をする。
次いで昭和20年には韓国の釜山近郊飛行場へ同じく飛行場作りと保守をする。
毒ガス弾・細粒ガス弾の散布訓練、無人部落、八路軍との戦闘等の話を語る。


そうしてやや遅れて取材陣の取材陣:韓国MBCTV4名

途中、白水婦人の携帯がピロピロ鳴ったのが痛かったが…、これからは少数・大勢での取材に関わらず
「携帯電話は電源を切るかマナーモードに。時計などの音の発生するものは音が決して出ないようにお願います。」
と取材前には必ずアナウンスを流そうと学習。固く心に誓った。


 やはり天皇戦争責任の話を聞きたくてしょうがないオーラを発し続ける韓国MBCTV。
小生が覚えているだけでも3回は白水さんに天皇問題を問いかけるも、白水さん刻々と己の戦争感を語るのみ。
撮りたい映像が撮れなかったのかは神のみぞ知る。

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.5月某日韓国MBCが来たのだが…◇◆◇◆◇◆

▲事務所はかなりギュウギュウ!


▲逆に取材される図



▲3無書、この日のために筆を取る

来た、韓国MBCTV
8・15の特番の取材にとウチ(戦場体験放映保存の会)を訪ねてきた。
総勢4人、人数的には良いのだが、なにせ機材がデカイ!人口というより機器密度が高い。
あぁ、やっぱりプロの機材って立派。羨ましい、妬ましい。コッチも負けじと在るだけの機材で対抗(?)逆取材!
2時間強の取材だったのだか、イマイチ何が撮りたいのかが解らなかった。天皇戦争責任とサイパン島から生還した山内さんに、取材出来ないかと祈願(?)していたものの、山内さん本人の病状が芳しくなく、自ら断っているし、こちらとしても何もできない。

 とどのつまり、撮りたかったものはやはり天皇戦争責任に繋がるものなのかなぁ?
来週の取材同行もどうなるのか楽しみのような…複雑だ。

 収録が終了。韓国取材人が帰ったところで思わぬ吉報アリ。
先々週、上田先生のパソコンがぶっ壊れた…。
しかも、あの1500ページにもなる。新作の原稿のデータが入ったまま、ぶっ壊れたのである。
バックアップしていたものの記憶媒体では無く、HDへの保存。壊れたのが本体だったからさぁ、大変!
なにせ壊れたのが本体だったからさぁ、大変!
上田先生意気消沈、鵜野社長(データハウス)
顔面蒼白!
メンテナンスに出すも、直るかどうか解らないとの事。祈るしかない。
日頃信心浅すぎの連中が血迷いながら念を送っていた成果であろうか?
PC復活の朗報が届いた。 念も案外通じる…。

入院先から無事帰還を果たしたパソコンのドキドキ火入れ式
モニタに映し出されたWindowsの「ようこそ」の文字に
「何が今更『ようこそ』だ!」 とつぶやく某氏。
確認後、データが無事だと解ったのだからまぁ、良しとしましょう。
故障〜入院〜退院〜動作・データ確認までの期間、本当に生きた心地がしなかった。

 今日の教訓:データのバックアップはこまめに、記憶媒体へ非難させよ!

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.5月某日60年間渡る元兵士達の望郷の想い◇◆◇◆◇◆

大使館員が2人と面会 元日本兵か、比ミンダナオ
【マニラ27日共同】フィリピン南部ミンダナオ島に2人の元日本兵が生存しているとの情報を確認するため、マニラの日本大使館員が27日、同島ジェネラルサントス市内のホテルで2人と面会する。
 これまでの情報では、2人は元日本兵であることを証明するものを所持、漢字で書いた名前を示したという。大使館員は、第2次大戦中の同島での日本軍の展開記録などを基に話を聞く予定。
 現地で元日本兵の遺骨収集活動をしている日本人が残留日本兵のうわさを聞き、ジェネラルサントス近くの山中にいる2人と連絡を取って日本政府に通報した。
 2人がいるとされる同島南部の山岳地帯は、イスラム過激派のモロ・イスラム解放戦線(MILF)の活動が活発な地区。
 フィリピンでは北部ルバング島で1974年3月、小野田寛郎元陸軍少尉が、島に配属されて以来30年ぶりに救出された。中部ミンドロ島でも56年、残留日本兵4人が救出され帰国した。
 また米領グアム島では72年1月、横井庄一さんが救出された。
(共同通信) - 5月27日6時20分更新


▲戦場体験放映保存の会総会で
  来賓挨拶をする谷口さん
 ミンダナオ島といえば、先日取材した谷口さんが上官とトラブルを起こし、中国戦線から転属(左遷)されてしまった島。
谷口さんの証言では、1945年6月下旬には銃弾も食料も尽き果て、もはや大隊を抱えきれなくなった指揮官は、
「東条(英樹)が大艦隊を引き連れて応援に来る。そうしたら、我々陸側の隊と海から上陸する応援部隊とで敵軍を挟み撃ちにする。それまで各小隊ごとに分散し、自活しながら待機せよ!」
との命を下す。一時分散・待機という名目で多くの兵士が未知のジャングルへと放り出された。谷口さんは6人の部下と餓死線上の状況で山岳ジャングルを彷徨う。飢餓に苦しみ、食料を奪い合うために日本軍兵士同士が殺し合う。人肉まで食べながら生き延びる兵士等、耳を疑いたくなるほどの壮絶なサバイバルが繰り広げられたミンダナオ島。現在、ミンダナオ島に元日本軍兵士が50人程いるという事だが、帰国したら「軍法会議」にかけられるのでは?という恐れを抱き続けてきた彼らの心神へ徹底的に叩き込まれた「軍国主義」というモノに恐怖を感じた。
彼らの60年間にも渡る祖国への望郷の想いに対し、「帰って来い!」としか言えない。

※このミンダナオ島元日本軍兵士事件について早くも東京新聞から谷口さんへの取材依頼がきた。本人も快く取材に応じるとの事。
※パートU東京新聞5月28日(土)に谷口さんのコメントが掲載されてます。
※パートVいまさらデマっていう噂が飛び交ってますが…
◇◆◇◆◇◆◇◆2005.5月某日常連さん◇◆◇◆◇◆

▲いつもおしゃれ!

 ある昼下がり、ピンポ〜ン♪とチャイムが響く。ドアを開けるとそこには多田軍曹が…。本当に今度こそ奇襲です。ビックリしました。
 東急近くにある、昔、仕事の取引をしていた会社へ行こうとして、バスを待っていたけど中々バスが来ない…。ふと、見上げると世論力TVの事務所がある。(目の前です。) バスも来ないし、遊びに行っちゃおう!ということでふら〜っと寄ってみました!(多田) 多田さん来訪記録更新中、殿堂入りも近いです。
  多田さん、ただ来た訳ではありません。お土産話は欠かしません。お話を聞くと…
  砲兵隊の分隊長だった人が近所にいたのを思い出したので、知らせにきた。取材ができるようならいつでも私(多田)が取材の段取りするから考えておいてね。素晴らしい!いやはや、何とも頼もしい申し出を頂戴しました。
勿論「お願いします!」と即答。多田さん大活躍!
さすが、戦場体験放映保存の会きってのカリスマステーション!働く働く!

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.5月某日哲塾&総会本命打ち上げ…◇◆◇◆◇◆


▲大詰めを迎えた哲塾第一期


 哲塾第一期も5講義目。お粗末なボロキレ政府によって覆いを被されてきた戦後直後からの日本近代史。その覆いを取っ払いながら一つずつ史実を解明していく哲塾第一期は、いよいよ現代、グランドフィナーレに近づきつつある。

 技術局長不在の為、撮影を一人でやる羽目に。厳粛な講義が進行中、設置している2台のカメラ間をハツカネズミのように徘徊。ウザかったに違いない。 案の定、講義が断片的にしか判らない。
なんとなく印象にあるのが、田中角栄、中曽根みたいな世間で言う目立ったやつではなく、居たか居ないか判らないヤツが首相の時に厄介な種が蒔かれるようです。(勝手な感覚租借)
国民が馬鹿なほど政治家は旨味あるのお仕事、票はパパからそっくり相続できるし、企業とつるめば人生バラ色!
思わず渋谷の中心で「昭和維新の歌」を熱唱したくなる今日この頃。
来月の第一期最終回では、絶望の中から光を見出すことができることを祈るばかり。

また、哲塾第一期生がまとまり、戦場体験保存活動に何らかのアクションを起そうと構想中!

  哲塾、終了後。一旦事務所へ、
先週開催した戦場体験放映保存の会結成総会の打ち上げ(大本命)を渋谷赤からにて決行。
参加者: 副代表、全国総本部長、事務局長、事務局次長、事務局次長

長長だらけぢゃ…「バタフライファミリー」とでも名付けるか。
会場にエントリーされた「赤から」は名古屋に本店があり、名古屋名物八丁味噌のスープがベースとなっている「鶏鍋」。たっぷりのもやし、油揚げが入っている、1〜10まで辛味のランクがあり、3が基本、10を完食したら店内に写真が掲示され晒し者になれるらしい。

 「3」(副代表、事務局長)と「8」(全国総本部長、事務局次長、事務局次長)を注文。
スタッフは余っているほどいるのにビールが来ない。枝豆だけ出されても…。
酒のオーダーは早めにしなければならない!とインプット。
ワインはグラスでチマチマオーダーなんかしてられない!デキャンタだ!
グラスモノは来たら間髪入れず、次のオーダーをねじ込め!こうなると給仕のおねいさんとの戦いである。

 戦場体験放映保存の会総会、新聞社からの取材を経て、客観的な意見を投げかけられたことによって、これから先強化すべきこと、見落としていたことが見えてきた。これからもこのように日進月歩変化していく組織がうまく回転できるように、流動的な対応が
求められる、日々の精進を怠ることが出来ないと、現実が心を突き刺す。

 美味しい鍋に舌鼓、酔いも回ってだんだん話題も砕けてきたころ、沸き立つ好奇心から、副代表(グラサン:いつもジャージ姿の出版会社社長)と事務局長(ふちなしメガネ:いつもスーツ姿の営業マン)のメガネを交換して、メガネにおける人間の印象について検証してみることに…
←見ればお解りのように、大変興味深い結果が生み出されました。
副代表(左):普段発しているカリスマオーラを見事に消去。そこらに漂っている人畜無害なただのオッサンへと変換することができました。
事務局長(右):満面の笑みが…不憫でなりません…。その場では「タクシーの運ちゃんみたい〜」と 言いましたが、アヤシイ…一歩外に出た途端、機動隊に取り囲まれる可能性100哲。某国の特殊工作員か!
素晴らしい実験でした。是非、学会(あれば)で発表したいと思います。

 終了後、飲酒後なので軽めに銭湯へ。帰り、近所にオープンした居酒屋へ。おしゃれではあるが品揃えが弱い!やはりカタカムナだな。深夜、カンヌ映画祭出品作「バッシング」に出演、カンヌ遠征帰りの本多菊次郎先生より、召集あり、打ち上げと重なり、本多カンヌ報告会に欠席したので召集に応じ、新宿で三度呑み。肝機能かなり低下。



▲赤から鍋辛度「8」



▲ただのオッサンと某国の工作員
◇◆◇◆◇◆◇◆2005.5月某日東京新聞がやって来た◇◆◇◆◇◆

▲日常から反転、取材される

 TNP曰く、「新聞じゃない」東京新聞が戦場体験放映保存の会の活動について取材にやって来た。
総会でも真剣にメモをとる姿が印象的だった。そして今回は痛いトコを突かれた…
「取材対象の15万人というのは…」(たぶん、国民総動員体制が必要です)
「素晴らしい運動ですがやはり大規模な展開を図る上では、人材(ステーション)を育てるためのマニュアルや事例といったものが無いと難しいのでは…」(うっ、前からやろうと…すいません早急に創ります)
「戦場体験というものを世間一般に広く活動内容・主旨を明確に伝えるために、イベントをやらないとなかなか認知されにくいですね」(夏休みにはビデオ上映強化期間として「夏休み戦場まつり」、「戦場スタンプラリー」など思案中)
 戦場体験を残すことは、全ての世代が一丸となって(国民総動員!)取り組まなければならない急務な課題であることは解るのだが、それを伝えることの難しさをこれでもかぁ!と改めてタタキつけられました。
改善しなきゃと思いつつ、ぬるま湯に浸かって、実行動出来なかった自分の甘ちゃん加減を反省…。

 去年の選挙の時といい、今回の取材でお会いした東京新聞の記者さんは個性的。取材をしてくれたから褒めているわけではなく、以前からウチらの間で東京新聞は大人気(だったら購読しろよ!)。朝風谷田川さんも絶賛してる。
他社の記者を数多く見てきた事務局長曰く、「東京新聞は他社には全く見られない独自の匂いがある」うん、納得!

 そんな大好きな東京新聞さんに出したお茶菓子が、盆と正月が一緒に来たかのように豪華であった。
普段は米菓(上田先生がいるときは豆おかき必須!)とチョコ(営部が食い尽くすのだが)位が関の山。
しかし、今回はランクが違います。
←銀座アスターの月餅&花園饅頭の花園羊羹!そして申し訳なさそうな煎餅
【!ご注意!】 清貧な小生らはこんな高級品を買うことは出来ません。(哀)
前日、塩見氏からご招待頂き、新宿銀座アスターにて「高花(テイケイ(帝国警備)社長)&塩見(元赤軍派議長)サロン」に参加した際、お土産として頂いたモノ。しかも、同席した鈴木さん(独身)に
小生: 「月餅はともかく中華まんは温めないと食べられませんねー、お家で食べ切りますか?」
鈴木さん:「えっ、う〜ん。じゃあ、あげます。事務所の皆で食べて下さい。」
小生: 「いいんですかぁ?すいません。いただきまーす!」(と、言い切らないうちにぶん捕る)

お茶菓子捕獲作戦成功(何故か入っていた花園羊羹も気にせず懐へ)
※事務所にはレンジが無いので中華まんはこっそり着服。


▲お茶菓子が高品質(当社比)
◇◆◇◆◇◆◇◆2005.5月某日結成総会後…◇◆◇◆◇◆


▲ぎゅうぎゅうの喫茶店…


▲とりあえず目入れとくか!

▲ダルマとして認められました。

 七転八倒しながら準備を進めた戦場体験放映保存の会結成総会!
 かつて取材した多田さんを初めとしたジジ…いや証言者の方々(多田さん、谷口さん、井ノ口さん、天野さん)、そして戦場保存運動の大先輩である朝風の会の方々。名古屋から駆けつけて下さった伊佐治さん。その他面識のなかった大勢の賛同・支援者の方々、そしてホームページを見てきてくださった方等、世代も環境も多種多様な人たちにお集まりいただいて、大変嬉しく、感謝感激でした。総会の報告は戦場体験放映保存の会もしくは戦場ネットブログから御覧下さい。

やっぱりみんなお話したかったのね…。
総会終了後、主催者も参加者も関係なく交流を深めてもらおうと会場近くの喫茶店、「時間割」にて懇親会を開催。
総会には間に合わなかった鈴木邦男氏もここから参加。予約を入れておいたのだが、思いのほか大勢が参加。私たちの陣取る店内の一角だけギュウギュウ店員さん、オーダー取りに人並みかきわけ四苦八苦
落ち着いたところで自己紹介タイム。しかし、人数も多いが皆さん話したくてウズウズしていたのか、長い…(注:いや、皆様のお話そのものは面白いですよ)。ヤバイこのままやってたら閉店時間はおろか朝まで生自己紹介になりかねない!耐えかねた事務局長の「すいません大勢いらっしゃいますので、皆様がお話できますように、お一人1分程度でお願いします。」との提唱するもさほどの効果も無く、1時間の予定が2時間強の大懇親会となりました。しかし、災い転じて福と成る!かなりの盛り上がりとなり、皆大いに語り合う事が出来た様子だったのホッと安堵、しかし発見してしまった…「おいっ、ソコ!ビール呑んでるのか!あぁ、アッチも…」絶句やられた
(ToT) 。涙をのんで珈琲をすする…。
この大懇親会の後も谷口さんを始め、有志12で夕食へ、ステーキを頬張りながら戦時中の「カエルペチッ!ポッケで干物製造中話」、取材では聞けなかった「オトナの戦場体験話」等、普通ではとてもステーキを食いながら話題にする話ではないのにすんなり聞き入りながら「パクモグ」しながら「へぇ〜それで○○を××したんですかぁ?」と、身を乗り出して問いかけている己に複雑な思いが一瞬脳裏を駆け巡った。

まぁごくろーさま…。
ようやく解散。事務所へ戻る。銭湯にて今日一日の疲れを洗い流し、ようやく総会無事終了お疲れ様の乾杯!
冬からずっと パソコン上にホコリさえ掃ってもらわれず、放置され、無視され続けていた悲劇のダルマさんにとりあえずの節目を掻い潜ったとして、「戦場体験放映保存の会結成総会記念」の目玉を入れる。そのまま事務所泊。

早朝の奇襲攻撃…。
翌朝、けたたましく電話のベルで起こされる。受話器の向こうでまくし立てるようにしゃべる声を聞いても寝起きの為、誰かも解らず「どちら様ですか?」返答を聞くなり青ざめる総本部長。上田先生からである。
「次の「百万の声」に載せる為、来賓挨拶と総会での質疑応答の文字起こしを午前中に送って。」
その時点で7時30分を経過、残り4時間、時間が無い!夢の真っ只中からキビシイ現実に突き落とされる一同。
急げ!パソコン起動!テレコデータ転送!人間…バグってます!
何が起こったのか解らんまま どうにか3人で手分けをし、何とか文字起こし終了。ギリギリ午前中に間に合う。
久々の大混乱。とりあえず昼食を採った後、再び夢の中へ逃避したのは言うまでもなかった。

◆◇◆◇◆2005.5月某日戦場体験放映保存の会ワールドワイドになってきた?◇◆◇

 戦場体験放映保存の会結成総会の直前からなにやら騒がしい。
  まず初めにおフランスのル・モンド紙から「戦場からの証言」でサイパン島からの生還体験を証言した山内氏へ「天皇サイパン滞在問題」に関してのコメントが欲しいとの事。当の山内さんは最近、体調が思わしくないインタビューに答えようとする、答えなくてはという使命感と熱い想いに圧倒されますがやはり無理な様子です。月日の流れが無情に過ぎていくのを痛感。山内さん、良くなって下さい。
 韓国のテレビ局、韓国MBC文化放送かやら戦場体験を取材し、インターネットで配信している当サイトの活動主旨・内容を取材させてくれとの電話・ファックスあり、まぁ、詳しくは戦場ネットブログを御覧あれ!
早速鈴木邦男氏に教えたところ「ああ韓国TV局のそれね〜、終戦日放送予定の戦争特番でしょ?ボクのところにも取材の申し入れ来たよ。」チッ、さき越されてる…。今月末に取材予定です。後であわせてウラ情報流します。

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.5月某日戦場体験放映保存の会ブログスタート!◇◆◇◆◇◆

 とうとう「戦場体験法会う保存の会」がやってのけました。
やふぅの軟弱システムに無駄骨を折られながらも、ようやくブログが出来ました!ウラ日記と違ってかなりマジメに仕込んでます。とくと御覧あれ!

◎撮る!観る!探す!戦場体験◎たとえばこんな平和運動 http://blogs.yahoo.co.jp/station_hozonkai
  一言メッセージ: 戦場体験放映保存の会 戦場体験を語り継ぐ平和運動の情報サイトです。
さぁ、よいこは即効、お気に入りブログにご登録!

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.5月某日軍曹再び…◇◆◇◆◇◆


▲また来たよ!


ブルルーン、自慢の愛車

 戦場体験放映保存の会総会の前日。前夜の雨のせいか、若干肌寒い。
総会準備をしているところ、静寂な事務所内で突然電話が鳴り響く。
ガチャ「はい上田事務所です。」受話器から聞き覚えのあるジ、おじ様の声…
「富ヶ谷の多田です。今からお邪魔しても良いかな?10分で行きます!」
軍曹殿だ。「はい!お待ちしております!」と即答。
ふと、 事務所を見渡す。出しっぱなしのベッド、広げたままの書類、積み上げられた毛布、なんと恐ろしい光景であろうか…。
急げ!バッタのようにベッドをテキトーに解体、奥の部屋にブチ込む!毛布をロッカーへ押し込む!書類の類をカバンにねじ込む!とりあえずOKか?.
 そこへ多田さん入場、危ない危ない
何事も無かったかのようにお茶を入れ、明日の総会で多田さんにお願いしている来賓挨拶についてや、軍隊時代、ご家族の事など楽しくおしゃべり。
ご機嫌で颯爽と愛車にまたがり帰る多田さんお姿を見送った。

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.5月某ここに住む気かオマエ!?◇◆◇◆◇◆


▲最期の一線を越えた暴挙?

 戦場体験放映保存の会総会を目前に慌しく空回りばかりの日々が続く。
狭い事務所泊まりは2名では快眠度100哲。3名では快眠度70哲。4名になると快眠度は40哲以下にまで下がる。
とうとう我慢できず。渋谷ドンキのアウトドアコーナーへ駆け込む!
バーベキューセットに後ろ髪を引かれながらも大捜査網を張り「アレ」を探す。
あった!視界から大きくフレームアウトした一番上の棚に「ナニ」は鎮座していた。

←コレである!

とうとう仕入れてしまった…アウトドア用の簡易ベッド!
「安眠こそ人生最大のビタミン剤である!」そう潜在意識に叩き込め、寝る!お休みなさい(スヤスヤ)
寝るなぁ! 仕事はまだ山ほど残ってるぞぉ! (外野席からの野次)

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.5月某日小山市の中心で天野が吼える◇◆◇◆◇◆


▲直筆の詩を背景に吼えてます

 名古屋出張から1日明け、二度目の栃木県小山市。先月「戦場からの証言」取材をした朝風の会、会員天野さんが地元で開催される「9条を守る平和の集い」にて講演を行うのでご招待いただいた。谷田川さんもご一緒です。(ドキドキ)

 地元の「9条を守る会」作成のスライドショーから始まり、元小山市市長で戦争時軍医であった方の「軍医からみた戦争」と題した講演。そして、天野さんの「シベリア抑留4年間」講演。各平和団体代表らによるトークセッション&会場とのディスカッションという流れで集会が進行していった。

 限られた時間の中、徴兵から南方〜帰国まで元軍医さんの話はまとまってはいるものの駆け足で流されている感じが拭いきれない。ちょっと残念。きちんと取材すれば色々エピソードが引き出せるかも知れない。
 そして天野さんの出番!ホンの20分程度で4年間のシベリア体験から9条への思いをイッキに語るのは無理です!
白川さんの話だけでも2時間は必要なのに… 講演途中突然舞台の配置換えが、暗幕を剥がすとそこには大きく一面に、天野さん直筆の詩が掛けられている。吼える天野さん、免疫の無い人は若干引き気味。構わず吼える天野さん。
「一生懸命書いたんだなぁ〜でも行が進んでいくうちに字が気持ち小さくなってるような…最後の一行はかなりキビシそう。」スタッフにせっつかれながらもどうにかまとまったものの、想像通りご本人はかなり消化不良気味でした。
 トークセッションで「田中正造大学」なるものが存在することを初めて知る。何をしているのだろう気になる。
上田先生も死後「上田哲大学」が出来るのかなぁと不謹慎な想像が脳裏に浮かぶ。
 この手の9条集会にありがちな展開ながらも、こうした地域の住民と共に対話しながらのイベントを開催することに意義があると感じる今日この頃。そして谷田川さん時たま転寝。でも、集会の流れをきちんと把握してるトコは流石。

 会場外ロビーでソフトドリンク(酒無)&ケーキで軽い打ち上げ、ケーキはパスし、美味しそうにケーキをほおばる谷田川さんと営部の横で午後茶オンリーで過ごす主催側の人員は殆どJR労組系であることが判明。 まぁ、いいか。

会場打ち上げも早々に終わり、朝風組と世論組で近所の店で打ち上げの仕切りなおし。今度はビール!
お酒をあまり飲まない谷田川さんに天野さんは「東京では谷田川さんに従うが、小山にいるときは私の言うことを聞け!」とガツンガツンビールを注ぐ。大丈夫ですかぁ?谷田川さん?
お酒も入り、ほろ酔い上機嫌の天野さんと別れ、一同東京へ戻る。
 飲酒の消化不良気味の世論組は池袋で三度目の打ち上げをしたのは言うまでも無い。
 ジジイで明け、ジジイで暮れようとしている黄金週間は終焉を迎える。


▲田中正造カレンダー微妙に欲しい
◇◆◇◆◇◆◇◆2005.5月某日佐藤お蔵入りか?!◇◆◇◆◇◆

 4月下旬にどうにか小生初の編集を手がけた佐藤貞さんの映像が上がったのだが、すでに佐藤さん本人がビデオ製作中との情報が入る。
デスクチェックもしないまま。このままお蔵入り確実となってしまいそうな予感に100哲。(ToT)

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.5月某日関東圏脱出!名古屋で取材だみゃ〜!◇◆◇◆◇◆


谷田川氏も交え取材開始

  とうとう、戦場からの証言取材班、中部地方制覇開始!
  前夜まで、深夜バスで行くか?立ち覚悟でのぞみ(自由席)で行くか?JRの思惑にまんまと乗せられてひかり(指定席)で行くか?散々迷った結果…JRの陰謀に負け(ToT)ひかりで名古屋へ。
奈良に帰省中の営業、谷田川氏そして本日の取材者近藤氏御用達のビジネスホテルで゙合流。

 ホテル内の会議室で撮影開始。多少外からの音が気になったのだが、撮影を進めるうちにそんな事を上回るアクシデントが起こるとはこの時思いもしなかった…

 近藤一さん(大正9年(1920年)生)
△現役徴兵1940年昭和15年12月2日(20歳)
▲陸軍独立混成第4師団石、第13大隊第2中隊 兵科:歩兵 階級:伍長
△主な戦地:中国(山西、河北、河南)、 沖縄
 ◆1941.04 石太線警備
 ◆1941.12 省都大原市警備、山西、河北、河南へと転属。 ※太平洋戦争の開戦
 ◆1944.08 上海より沖縄本土へ上陸
 ◆1945.05 沖縄戦突入
、独立歩兵第13大隊全兵員、1200名、敗戦後生存者はわずか92名、
          近藤さんはその中の第2中隊に所属。生存者11名のうちの1人である。

▲沖縄にて昭和20年6月に降伏、米軍捕虜となる。翌年1月、帰郷。


 撮影時間の最長記録樹立!11:30から始まった取材、終了時刻はなんと16:30。5時間にも及ぶ長丁場。
ひたすら、忍耐です。聞き手といえども体力勝負。爺達に負けるわけにはいきません!

 近藤さんは
日本軍の加害証言を法廷の場で初めて証言。兵役中は、中国戦線と、激戦地沖縄での2つの戦場を体験。
中国戦線ではどの地域であるのか知らされないまま、初年兵であるがゆえ、古参兵の分の荷物まで背負い延々と大陸を歩く日々が続いた。そして…
生きている中国人を的に、初年兵は銃剣の訓練をさせられた。人間の身体は硬いと思っていたが、銃剣はまるで豆腐を刺したかのように抵抗無くにスゥーっと入っていった。銃剣を引き抜いた途端に鮮血が飛び散った。
そうして死んだ中国人は村の片隅に掘られた穴にどんどん放り捨てられ、夜には野犬が死骸を貪り食って、暗闇の中で遺体がガサゴソと動くさまを見た時はゾッとした。
  行軍の途中で立ち寄った
村では、輪姦目的で拉致した中国人女性を逃げられない様に裸のまま縛り、大隊と共に連れ回した。」近藤さんは懺悔交じりに語りだした。
軍の徹底した階級制度と、戦場での壮絶な光景を目の当たりにするにつれ人間性は失われていく…声を震わせながら語る姿は自己満足だけの懺悔話ではなく、あの時の場景を遺さなくてはならないという気迫によって語り続けられていく。
 沖縄での戦闘では、兵士自ら「肉迫弾」となりアメリカ軍戦車の死角へ
爆弾を爆破、戦車の動きを封じる作戦では殆どが自爆、別の戦車から砲撃を受けて戦死、生存者は僅か1名きり。戦友が「じゃあ、行ってくる」と言い残し「肉迫弾」となり二度と戻っては来なかった…
戦死した兵士の上をアメリカ軍の戦車が踏み引き、遺体はグチャグチャに潰されていく。地獄だったと語る。
追われるように沖縄を南下し続け、6月20日仲座にて第13大隊玉砕、6月23日第32軍司令部玉砕。
近藤さんは米軍に投降した。

 何度も号泣しながらも戦場での体験をさらけ出した近藤さんは、戦場の末端で何が起こっていたのかの事実を、推測に過ぎない戦場論でしか戦争を知らない世代に知ってもらいたい。と日々、みずからの体験を語り続けています。

 何度も涙ぐむ悲劇的なシーンがあり、ふと、横目で谷田川さんを見るとなんと谷田川さん爆睡!
話のクライマックスを迎えようとしているその時…
ピーッ、キュルキュル、ジィーウィンウィン…ザーッ、ガシュ、ゴーッガー

撮影中です!自分の撮った映像チェックをしないでぇ、谷田川さん!もう、誰もツッコメナイ


▲丁寧に作成された地図。凄い!


▲地図と照合しながらの証言

◆◇◆◇◆◇◆2005.5月某日撮影終了!名古屋で打ち上げだみゃ〜!◇◆◇◆◇

無理がありすぎるモリ&キッコ

みそ煮込みだみゃ〜! ▲五臓六腑に染みる一杯! ▲金シャチ無しの名古屋城…
 ノンストップでの取材は4時過ぎにようやく終了。かなり遅めの昼食を近藤さん谷田川さんらと一緒に、地元の美味をと思いましたが、すぐ後に「戦場体験放映保存の会」名古屋支局(ステーション)の打合せも控えていた為、結局「蕎麦」となりました。
 近藤さん、谷田川さんらと別れ、1時間後に伊佐治氏のオフィスで軽く「戦場体験放映保存の会」の今後の展開についてのミーティング。
とにかくネット上だけではなく証言ビデオを多くの人と一緒に見て、戦場を知るキッカケを作る為の上映会の開催を薦めたり、証言者(老兵)探しの協力要請。

と、まぁ、大体一通り説明も終わったところで…「行きますか?」「行かれますか!」伊佐治氏と共に夜の名古屋へGO!
煮込み煮込み煮込みぃ〜」という訳で、夕食は味噌煮込みうどんに決定!紹介してもらったお店は、なんと漬物おかわり自由!素晴らしい!ビール美味!
  しかし、事務局長の体調が悪くなってしまい、急遽、ホテル探し。当然朝まで呑むか!と思っていた為、ホテルなど手配無しだったのだが、地元に詳しい伊佐治氏がホテルを案内してくれたおかげで部屋を確保できた。

 ダウンした事務局長を部屋に放り込み、伊佐治氏、営部、小生で本打ち上げ(呑)へ繰り出す。一軒目の割烹居酒屋では、営部の眩い青の携帯が余程気になったのか隣りの席で呑んでたお客さん(おにーさん)にナンパされ、案の定、年齢ネタでもってかなりイジリ遊ばれている。何処に行ってもイジられキャラだコイツ。とりあえず小生は伊佐治氏接待を続ける。伊佐治会談が落ち着いてきたのでようやく小生も営部イジリ遊びに参戦する。おにーさんに「戦場体験放映保存の会」をぬかりなく宣伝。好い気分になったおにーさんより「中々」をご馳走になる。
 2軒目は伊佐治氏が「出席スタンプ押さなきゃ!(?)」との理由で伊佐治さん皆勤賞のカラオケパブへ。
なんと、 伊佐治さん用曲目リストまである。かなりの上客と見た。 この段階でアルコール指数90哲、記憶が曖昧に。相変わらず年齢ネタで遊ばれている営部をよそに伊佐治さん熱唱!小生真面目に焼酎摂取!こうして名古屋の夜は過ぎていった…。

 翌朝、復活した事務局長らとともに朝食。名古屋のモーニングセットで「トースト、サラダ、茶碗蒸し」 というミステリアスな組合せに釘付け。オーダーする勇気と冒険心がない控えめな我々はフツーのモーニングを食す。
 観光でもしようかと、とりあえず名古屋城へ、しかし、名古屋城、金シャチが乗ってない!なんでも一匹、万博へ出稼ぎに行ってしまっているらしい。取り残されたもう一匹は金シャチドームという名のホッタテ小屋に、庶民がお触りできるように鎮座しているようだ。「金シャチお触り待ち時間30分」と掲示されている。
列に並ぶと空しくなりそうなのでパス。名古屋城上って城下の風景を眺め、そそくさと名古屋観光終了。
 帰り間際、タクシーの運ちゃんに「美味しいきしめん屋さんってご存知?」と聞いたら「きしめん屋さんってのは無いです。そば屋かうどん屋にきしめんってメニューはありますけど…」どうやら、「天ぷらそば屋さんは何処ですか?」と聞いていたと同レベルの「すっとこどっこい」愚問だったようだ。
運ちゃんに適当な店で降ろされ、してやられた感じのまま「きしめん」をかっ食らって我々の名古屋出張は幕を閉じた。
◇◆◇◆◇◆◇◆2005.4月某日黄金週間は多田さんから始まる◇◆◇◆◇◆

▲ふらっと遊びに来てみました

行楽だぁ!バカンスだぁ!と世間のウキウキムードからチョイ外れて、「戦場体験放映保存会総会」に向けての準備にまったりと準備に追われるGWになりそうな雰囲気全開。転々とため息が漏れる渋谷事務所。
 そんな黄金週間の初日。のどかなお昼前、外にいる同志よりTEL。
「たっ、多田さんが今事務所に入る!!」……「えっ?あの多田さん?」軍曹殿の奇襲だ!
投げ出された毛布を個室へ投げ込む!散らばっている書類を片隅に覆い隠す!マトモな事務所らしく戻す!
時間にして僅か1分弱、お茶とお茶請けを用意したところで多田さん到着!「あら〜、多田さん、よっ、ようこそ!」とかすかに息切れ混じりにお出迎え。早速多田さんを囲んでみんなで楽しくお茶を頂く。
「いやね〜、奥さんに子供、犬2匹で旅行に出かけちゃって…あっ、孫もだ(孫よりも犬が一緒に旅行に同行するのがインパクト大らしい)。私だけで留守番。(ちょい寂しそう)で、散歩してたら世論力テレビの事務所が近くにあるなぁっと思い出して来てみました。」それからお仕事やご家族、公園で出会った元兵士さん達のお話で盛り上がる。楽しいひと時でした。
帰りがけには、何人かの戦友の住所教えるから総会に案内してね〜と愛車に乗り込みブルルン、ブーンドドッドーと帰って行く姿は満州時代のサイドカーを運転していた頃のお姿とダブります。素晴らしいステーションぶり、素敵です!
 いいですねぇ、こうして多田さんみたいに気軽に事務所へ遊びに来て交流が持てるって。「いつもお爺さん達が絶え間なく事務所に遊びにきて老兵サロンになったら最高だね〜」とは同志のご意見。賛成です。

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.4月某日朝風編集長谷田川家訪問◇◆◇◆◇◆

▲改札を出た途端に満開の桜

▲たらの芽の天ぷらは絶品! ▲夫婦仲良く天ぷらを揚げる ▲はい、チーズ!


  朝風会報への記載のお礼とGW中に予定している三重への取材の打ち合わせ等の為、「朝風の会」の編集長谷田川さん宅へ、
独身で家庭の味に飢えている若人の為、谷田川夫婦がお昼をご馳走してくれるとの事と聞いて、小生も着いて行く。
 玉川学園前駅の改札を降りた途端、満開の桜が目に飛び込んでくる。絶好の花見日和。
谷田川さんが車で迎えに来てくれて、「せっかくだからちょっと回り道をして桜を見ましょう。」とのっけから嬉しいおもてなし。
 町田市は昔、中々人が住んでくれない為、住民になった家に桜の苗木を1本プレゼントしていたそうである。今はそういう事はしていないので、桜の木がある家は古くからの町田市の住人である事が解ると、谷田川さんは語りながら、河川敷へ車を進める。
「河川敷沿いには溢れんばかりに満開の桜街道が3〜4キロ続いている。圧巻。 遊歩道には花見をしながら散歩をしている家族連れ等で賑やか、
 スリリングなドライブが終了。谷田川さん宅へ。キスカ島撤収作戦(1943年、アリューシャン列島にあるキスカ島から、守備隊員5,600人全員の撤収が完了した。42年6月に占領したアッツ・キスカ両島のうち、アッツ島が5月29日に太平洋戦争初の玉砕地となり、キスカ島守備隊は孤立していた。大本営は撤収を決め、27日より患者・軍属820人をまず潜水艦で収容、第5艦隊第1水雷戦隊が全員の救出に成功、撤退を完了させた。太平洋戦争の中で唯一ともいえる奇跡的成功となる)等のビデオを見ている傍ら、小生達の為に、ご夫婦の見事な連携プレーで食事を作る姿に「大人の夫婦愛」を見た。
 お献立はお蕎麦2点盛(細・太)天ぷら(たらの芽!春!)キンピラゴボウ、サトイモと筍の煮物とどれも旬の味覚センスの良さが伺える。しかも「天ぷらは揚げたてが一番」と言い、食べながらも席を立ち、天ぷらを揚げて出してくれる念の入れよう、究極のおもてなしをして頂きました。美味しかった!
 谷田川さんの教師時代の楽しい思い出から、今取り組んでいる「365日この日何の日」という本の製作エピソードなど、話も弾む。戦場体験放映保存の会ステーション計画 についてご助言して頂いたり、三重取材の日程の相談もしっかり話し合う事が出来て楽しい日曜日でした。

 そのころ渋谷でも、多田清さん夫婦の絶妙な夫婦漫才風のやりとりを目の当たりにかなり楽しい午後を過ごしていた…。

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.4月某日バースデーパーティー◇◆◇◆◇◆

▲カンパーイ!


▲お誕生日おめでとう!
  会議後、「哲直言」収録。が、銭湯に行っていた為、見逃す。残念!
 前日に27歳の誕生日を迎えた営業シミズ、自分の誕生日を以前から強くアッピールした甲斐があり、お誕生会を「魚の隠れ家しめしめ」で開催することに。
 まだ自分の誕生日が嬉しいお年頃なのか「もう、27になっちゃいました!」との発言に「もうだとぉ!」三十路を超えた面々の怒りを買いまくる。普段だったら制裁を下すけど、今宵の主賓だから、寛大に受け流す。大人ですね。
 お魚三昧の料理も美味しく、皆お酒がススム。
しかし、案の定、痛飲。3品目以降の記憶が全く無い…。
菜の花の炊き込みご飯を思い出せないのが悔しい。数々の暴挙が店員のおニーさんには大ウケ。終いには靴を忘れ、靴をおニーさんに運んでもらって、またも大ウケだったらしい。飲酒時の記憶が飛ぶ様になって老いを感じる今日この頃。

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.4 月某日哲塾前夜のたたかい第四夜目◇◆◇◆◇◆

 上田先生が哲塾とテーマに最新著作「の執筆に取り掛かりました。
「反権力の日本軍拡史(仮)
戦後半世紀、憲法の衰退と肥大していった防衛問題。日本政治の衰退していくさまを国会の現場で25年間戦い続けた政治家が語る驚くべき史実!

 何せ1500ページにも及ぶ超大作、上田先生もさすがに最初は書こうかどうしようかな〜っと悩んでおりましたが、
書け!とのスタッフ&支持者の熱い声援に押されようやく執筆の決心。
ご本人は「遺書」になるのかと縁起でもない事をおっしゃっていましたが執筆をスタート。

 現在ノリにノッて全神経・体力を執筆に注いでいる為、直言の更新どころか哲塾にまで手が回らないのではとの心配がやや的中。
ギリギリまで次回の哲塾のレジュメ原稿が来ない。先日ようやくレジュメが届いて一安心のスタッフ一同ですが、執筆にかなりの労力が使われている上田先生があのハードな哲塾をこなせるのか心配です。
  先生に「パッション」級の鞭打たせてます。すいません。

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.4月某日戦場からの証言取材◇◆◇◆◇◆


▲まったりとしかし、
  壮絶な話をする井ノ口さん

撮影時間4時間強、史上最長記録の樹立です(当社比)
井ノ口さんは中国戦線を経験。その体験記は「おおたジャーナル」という東京都大田区の市民団体ミニコミ誌にて一年間に渡り連載していたが、長時間の粘り強い取材が功としたか、連載では書かれていなかった有名な華南作戦・湖南作戦に参加した時の壮絶な体験を聞くことが出来ました。
他にも軍の体制(組織)について詳しく丁寧に教えてくれたり、入院中のこぼれ話等悲喜交々、様々な戦場での体験を語ってくださいました。
かなりのヒットです!
午後イチから始まった取材、終わった頃はすでに薄暗くなり、普段だったら疲れているはずなのに妙に充実感に浸る。

本日の教訓:記者は沈黙して話題を引き出せ!スッパ抜け!

 渋谷に直行。この日は世論力TVご用達の焼酎バーにて「励ます会(ただの飲み会?)」を催して下さいました。
チアキちゃんや鈴木さんまで来てくださり、ありがとうございます。 ご迷惑かけます。
そして例の如くまた、痛飲。


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