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2004年12月から2005年3月末日までのウラ日記
最新版ウラ日記

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.3月某日塩見塾◇◆◇◆◇◆

何だか塾続きです。
今度は赤軍派元議長塩見孝也氏が月一回、高田馬場ライブ塾でやるとの事。テーマは「武士道」
かなり遅刻だったので話しに付いていけなかったせいか、全身レザー和装(!!)で登場した骨法道場の堀辺先生に目が釘付け。

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.3月某日右翼に言論の自由はないのか?◇◆◇◆◇◆

 26日午後2時50分ごろ、東京都世田谷区砧1の明治神宮宮司、外山勝志さん(72)宅敷地内に男が侵入し、玄関などの窓ガラス3枚を木刀でたたき割った。男はその後、近くの交番に自首した。警視庁成城署は建造物侵入と器物損壊容疑で取り調べている。
調べでは、男は右翼団体一水会書記長横山孝一(40)。
同神宮をめぐっては、天皇、皇后両陛下が同神宮を訪れた「参拝式」(昨年4月)の案内状で、神社側が敬称を「両殿下」と間違えて表記したことなどから、右翼団体が抗議活動をしていた。この男も機関紙に外山宮司を批判する記事を書いており、容疑が固まり次第、逮捕し関連を追及する。
神宮は、この誤記をきっかけに、全国ほとんどの神社を管理・指導する神社本庁(渋谷区)とトラブルになり、昨年8月、神社本庁を離脱している。

毎日新聞 2005年2月27日 3時00分

 
右翼が明治神宮宮司に対しての抗議の騒動は知っていた。内部事情が把握出来ない者にとっては参拝式の案内状の誤植ごときにまた右翼が人騒がせな面倒を起こしてる。明治天皇・皇后を祀りまさか一水会の横山氏がこのような行動を起こすとは「まったく何内ゲバみたいなことやってんだよー」というのが第一印象であった。右でも左でもない自分のようなノンポリの目線から見てです。
しかし、先日行われた一水会フォーラムに参加して講師の犬塚氏から、既成マスコミでは報道しきれていない明治神宮の裏で起きている醜聞きわまりない事実を聞く事になった。
外山宮司についてのいわゆる「週刊誌ネタ」をご存知の方もいるとは思いますが、まずは明治神宮の通常の神社に比べて宮司の人数が多いなどの体制のあり方に問題があった様な印象を受けた。
歴史が浅い神社であるがゆえに宮司というよりビジネスライクな考えで明治神宮宮司という肩書きを使う外山氏の行動にはもはや神道のかけらも見当たらない。
そんな彼の許されざる行為の数々を世間にさらさなければならない。もはや宮司を法廷の場に引きずり出すしか術は無いと思っての横山氏行動だという。
4月28日に横山氏の第一公判が行われる。果たして事件の真相は何処まで私たちのところに届くのだろうか?


蛇足:3月危機は本当にあった…。

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.3月某日3月危機◇◆◇◆◇◆

取材が終わり、急いで渋谷事務所へ。
恐らく世論史上最も遅い時間スタートの会議。その内容は…
トップシークレットでございます!
危機感迫る、緊迫した会議でございました。
落ち着いたのが夜11時…すでに宿泊確定。銭湯に行く者、買出しに行く者、それぞれの人生劇場。
深夜0時過ぎにサムラートのカレーをかっ食らう。無論アルコール付。

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.3月某日はるばる、来た(北)かんと〜(関東)◇◆◇◆◇◆
▲結構資料魔だった天野さん 湘南新宿ラインのおかげで乗り換え無しで1時間20分程で取材先の栃木県間々田駅に着く。のどかです。
若干早くついたのが何もせずイイ若モンが三人改札口でボケ〜っと突っ立って今日の取材相手天野さんを待つ。先週に引き続きまたしてもチャリでお出迎え。皆元気だ。
お宅の応接間にて取材開始。椅子をどかし、完璧なカメラセッティングと思ったつもりが…失敗した。陽が傾くにつれ段々天野さんに光りが差していく、完全にカメラと取材者の位置が逆のセッティング。最悪。

天野道有さん(大正12年(1923年)生)
△20歳の時現役兵として入隊
▲陸軍第378連隊・航空通信隊・桑田中隊
栃木県小山市在住。朝風の会所属。また、積極的に評論などを投稿する等、多方面で御活躍されています。
満州ハルピンにて終戦を迎える。その後、ソ連軍に拘束され、シベリアの捕虜収容所で4年間、
強制労働と飢餓、収容所内において上官や古参兵らによる同じ元日本兵による階級差別に苦しむ。
昭和24年7月2日舞鶴港に入稿、7月7日郷里に帰還 。

初年兵のうちに終戦を迎え、そのままシベリアへ
まず天野さんから言ったのは現役兵と応召兵との落差についてだった。まして天野さんは長男として一家を支えなくてはならない為、その怒りもかなりのものだと語る今の口調からも想像できた。
天野さん自身の戦場体験は主に守衛で、何度か夜襲を受けた事はあったもののすぐに終戦を迎える。シベリア捕虜収容所に連行される際、ロシア兵を見たのが初めての敵(だった)との遭遇だった語る。見えぬ敵相手と闘っていたとは想像しがたかった。

 シベリアでの最初の越冬は地獄さながらだったそうである。最初の冬を越えるまでに多くの死者が出た。寒さと労働も過酷を極めたが何より、飢餓による体力の衰えによる餓死、病死が圧倒数を占めていた。
一人当りの食事の配分が隊ごとに落差が生じた為である。戦争が終わり、捕虜となりながらも収容所では軍体制だけは根強く残ってていたそうです。食事の個々の分配は隊の隊長に一任されていた為に、隊によっては権力を持った隊長・古参兵が倍以上の分量を取り、力の無い初年兵らには半分以下の食料しか分配されなかった。
 当時のロシアの危機的な財政状況・物資不足から見て、捕虜には生きてゆくギリギリの食料しか分配されていなかったのだから、ほんのわずかな分配の不平等が命取りとなったのは当然の結果である。
よって、権力を持たない・身体の弱い兵の殆どは栄養失調による衰弱で寒さ・疾病に対する抵抗力が無くなり、シベリアでの最初の越冬を前に大多数の死亡者が出た。
 きちんと平等に徹して食料の分配を行った隊長もいる傍ら、権力にものを言わせて食料を搾取し、部下を死至らしめてしまった隊長もいた。分隊によっての生存者の落差は大きかったそうである。
 極限状態で普段では人の潜在意識に眠っている本性が剥き出しにされる恐怖を全身全霊で体験した天野さんの言葉は体験した者にしか理解出来ないという想いが込められ、聞き手として終始身が詰まる思いでした。

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.3月某日静かな週末のはずだった◇◆◇◆◇◆

気合いを入れて金曜日は仕事終了後渋谷へ直行。
 相変わらず深夜過ぎてから盛り上がる隣のアンビシャスの気合いの入ったカラオケが響き渡る中、谷口さん取材記録等,
溜まっていた分のウラ日記を更新。
今週末の会議は3月危機に関しての超重大会議があるようなので午前中に雑用を片付けようとしていたところ、この日営部のおばあちゃまの1周忌だった事を思い出す。先週聞いていたはずなのに誰一人として気が付かなかった。皆そろって伝染型の若年型痴呆になったらしい。
急遽。ボスに連絡。中心メンバーが1人として抜けては話が出来ない!との事。急遽次の日(日曜)栃木での取材から戻った後の夜7時30分に緊急会議がズレた。

「えっ、マジ?」だって取材が終わったらその足でキャットファイトを見に行く予定が…。折角沢口さんから招待券まで頂いて、営部も楽しみにしてたのに…と言い出そうとするのを遮るように「キャットファイトは残念だけどしょうがないよね!」と撃沈される(ToT)。
営部も「(キャットファイト)今度にします」と返事をしたらしいが今度って何時よ!沢口さん、三澤さんらに行けなくなったと詫びメールを涙をこらえて送信。

 今日の会議が明日に流れしまったが、やる事は山程あるのに間が抜けてしまった。
仕方が無いから明日の取材先の天野さんの資料でも再読しながらまったりとカメラの充電でもしようかしら?がしかし配線をブチこんでおいたバッグの中にあるはずの充電器が無い!しばし事務所をガサ入れするが、何処にも無い!
そういえば先週は定期スイカ&イオカード紛失している(ちなみに2回紛失してます。しかもここ1年弱の期間で)「この事務所にブラックホールがあるようにしか思えない!」と言いながらも「家だったりして?」との画期的なご意見。我に返ると「その可能性大!面倒くさいが一旦帰宅して探しついでに着替えとシャワー済ませてきます!」脱兎のごとく渋谷を脱出!帰宅。家に帰ると充電器が「忘れちゃ困るなぁ〜。」と言いたそうに部屋のド真中に鎮座していた。己のすっとこどっこい加減に落ち込みつつ早々シャワー・着替えを済ませ脱兎のごとく渋谷へバック!途中Bカメラにて1時間悩んだ挙げ句衝動的にICレコーダー購入!そういえば先週はDVDドライバ&外付ハードディスクを衝動買い。と来月のカード請求明細が恐ろしくて見られないくらいのデジモンを購入している。すっかりデジ貧道まっしぐら金が亡い…
事務所に戻るとすれ違いにホソ「ギ」が来週取材予定の井ノ口さんの資料を届けに来たとの事。ようやくバッテリーを充電しながら天野資料を読み始める。法事帰りの営部事務所着。代々木八幡の「塩梅」へ。昼からの法事呑み(?)で疲れているのも気にせず、1人で勝手にビール、ホッピー(中2)、黒ぢょか消費。事務所泊。

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.3月某日たまにはまじめにお仕事です◇◆◇◆◇◆
▲熱い情熱で語る谷口さん 日曜日の昼下がり。個性の強い商店がバランス良くひしめいている吉祥寺に着。取材を行った。
わざわざ駅まで迎えにきてくださった谷口さん。しかもチャリで…。頼もしい限りです。

谷口末廣さん
(大正9年(1920年)10月19日生)
△1942年1月10日(22歳)現役兵として入隊
関東軍10師団輜重10連隊、満州・佳木斯(じゃむす)に駐屯
▲1944年6月、中隊長とのトラブルが原因で、同連隊より唯1人第133飛行場大隊補給中隊に転属、フィリピン・ミンダナオ島に送られる。
▲1945年6月下旬には弾も食料も尽き大隊は解散、6人の部下と餓死線上の状況で山岳ジャングルを彷徨う。
1945年9月30日投降
1946年12月25日帰国

 満州に配属されたものの、隊の中隊長とのトラブルが発生。反感をかった為、死刑宣告とも言える「南方」転属を命ぜられる。
当時、軍では南方(フィリピン)に転属(左遷)されるという事は「死もしくは死刑」と同じ意味をしていた。

  案の定、物資の補給もままならないフィリピンでは苦戦が続いた。
とうとう 戦力も食料を失いかけ、一旦は『玉砕』命令が下されたが、「東条が大隊を引き連れて応援に来る。そうしたら海と山地から挟み撃ちにして敵を一網打尽にする。残りの食料も尽きてきた、ここからは小隊ごとに別れそれぞれ自給自足で東条の援護大隊が逆上陸まで待て。」と玉砕命令から一転し、当時の谷口さんですら信じがたい 各分隊自給自足での待機命令が出た。
 そうして 兵を維持できなくなった大隊は 、小隊ごとに分解され、挙句の果てには日本兵同士が殺し合う程の壮絶なサバイバルが始まったのである。
敵は「飢餓」、「伝染病」、そして、味方であるはずの「日本軍」とうって変わり、もはや戦争ではなく、戦場は地獄と化した。
そんな状態で三ヶ月間も谷口さんは敵のみならず伝染病、飢餓の脅威に襲われながらも生き延び、終戦から一ヶ月半後に投降した。

  谷口さんの戦場での体験もさることながら、ジャングルでのすさまじいサバイバルエピソードは想像を超え、酷いものでした。
わずかな乾パン欲しさに仲間を殺す兵士。まだ死んでいない戦友の爪を剥がし、遺骨が持って行けない代わりにせめて爪を祖国に持ち帰るんだという戦友達(もはや生き延びている兵士でさえ、指一本、火葬する体力も無くなっていたのである。)。死んだ戦友の肉を食べ、餓死を免れようとする者等…

  時に涙を流しながらも 、
「東京大空襲やヒロシマナガサキ等の被害知識だけでは戦争など阻止出来ない。日本軍が60年前の戦争で加害者としてなにをしてきたかを知らずして戦争の愚かさを知ることはできない。今の日本の政治家は戦争がどういうものかを知らないからいとも簡単に戦争に加担できてしまう。こんなバカな事があっていいのか!」
と怒りの声を高らかに挙げていた。この怒りは決して谷口さんだけの声ではない。今まで取材してきた証言者全員がこの怒りを持ち、私たちに語りかけるのである。

思い出したくも無い過去を語るのはさぞ辛い事でしょうなどと安易に知ったかぶりは出来ない。しかし、
「 生き残った者の義務として自分がこの戦場経験を語り繋がなくてはならない。これが目の前で無念のうちに死んだ戦友の為に出来るせめての供養だ。」
という証言者の方々の力強い意思の気迫を痛い程感じます。

 「戦場を語り繋がせる」これからの自分のライフワークにせねばと痛感。頑張ります。

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.3月某日フィールドワーク(売り込み)◇◆◇◆◇◆

▲ビーグッドカフェイベントにて
 壁面いっぱいのスクリーンに
 映し出される藤岡さん

▲ビーグッドカフェイベントにて
 とりあえずオーガニックカリー


 ビーグッドカフェという環境保全・フェアトレード系エコロジカルなコミューン(?)のイベント
「ルドルフ・シュタイナー『モルゲンランド「あしたの国」のまちづくり』」のNPOのPRコーナーで私たちが全身全霊をかけて取り組んでいる「戦場放映保存の会」のデモンストレーションを行いました。

 ルドルフ・シュタイナー(1861〜1925年 オーストリー・ハンガリー帝国領(現在のクロアチア)生まれ。哲学をはじめ、建築、芸術、教育、医療、福祉、農業などの分野に 新しい展望を開いた)という人の思想に基づいた教育・まち造りを目指すぞ!というイベントでした。
 ちなみに、「モルゲン」はドイツ語で「朝」「明日」という意味。
シュタイナーが85年前に始めたシュタイナー学校は今や世界に900校。
さらに欧米では、学校をめぐる「まちづくり」の活動が広がりつつあります。日本でもこれを始めたいと、シュタイナーを学んできた27人の有志が立ち上がりました。
千葉県長南町にある21万坪の土地に「あしたの国」がつくられ始めました。
貴重な自然環境と共生しながら創られ る21世紀の人間社会。人間的であること、自由であること、それがあしたの国の理念です。詳しくはこちらで→(http://www.ashitanokuni.jp)


 先日「東京大空襲を学ぼう」でご一緒したピースリレー西田氏も スタッフとして参加していたのでご挨拶もそこそこにイベントが始まる。
 和やかで、おしゃれな、オーガニックカフェでのナチュラルな雰囲気の中、会場の壁面いっぱいに映し出されたのは…
戦場からの証言」のっけから銃身で中国人を殴り殺すエピソードを語る藤岡さんの姿。なんとなーく会場の温度が下がった気がしなくもない、(ある意味それをねらった)
 持ち時間はわずか5分。前日事務局長が徹夜で3分に短縮した映像を流し、残り2分で怯んだ観客に尽かさず保存会の意義主張を刷り込む!キッチリ5分間のデモンストレーション、素晴らしい!

 その甲斐あってか、早速ナイスなおぢさまからのアプローチが。NPO地球村所属、「東京平和映画祭」の運営スタッフもなさっている方でした「次回の映画祭のコンペに出品してみてはどうです?」とのお言葉。うまいねえ、
その映画祭は次回の哲塾を日程がダブるのだが興味を持っていたので、偶然にも主催者側の人とお話ができて「あぁ、来て良かった。」と安堵しました。(お世辞に乗せられチケット購入。商売うまいなぁ)
チラシ等もはけたみたいで合格点



 
撫順の奇跡を受け継ぐ会主催イベント「いま歴史を問う」になだれ込む。こちらはビーグッドカフェよりもずっと私たちの運動に近いためか引き込まれた。講演会が主ではあったが戦争当事者と実際、教師をしている傍ら、元兵士の聞き取りをビデオに記録しているご婦人(私たちと同じで共感!お師匠!)のお話もあり、前半は60年前の戦争。後半はイラク戦争において今だに続く、日本の自衛隊派遣による戦争加害者という立場と責任について。の2本立て。
 今昔の戦争に対する価値観の変化と、いつの時代であっても変わらない戦争の悲劇をまずは己に問いかけてみよう!という地道に努力を重ねる主催者側の平和への願いに対する意識の高さに頭が下がるばかりです。見習おう。
 残念ながらスタッフの方とはコンタクトは取れませんでしたが後日丁寧で私たちについて好感触な印象を持っていただいたという内容のメールを頂きました。早速次回のコンタクトを撮らねば!お互い協力できれば最強。

※ちなみにこの会場で去年「日の丸・君が代強制に対する被処分者の会」の元教師の岡田氏、「戦争を語り繋ごうメーリングリスト」のオフ会で新宿戦場遺跡ガイドをしてくださった長谷川氏と偶然遭遇、両者とも取材はしたが編集がまだ停滞している為、少し気まずかったのですが、にこやかに談笑してくださいました。不思議な人との縁をしみじみ感じます。
◇◆◇◆◇◆◇◆2005.3月某日哲塾第一期:第3講義目◇◆◇◆◇◆

▲わざわざ鹿児島から哲塾に参加された市議会議員の野口氏

三回目にしてようやく雪・雨を免れ、晴れた。
哲塾第一期も折り返し地点にさしかかり、一つのヤマ場をむかえた。
憲法が力を失いかけ、軍事が肥大していく分岐点以降となる1970年代。そう、「シーレーン」である。

 やはり今回もカメラ(撮影)に集中していたため、よく聴講することが出来なかった。
まぁ、撮影を担当してなくてもレベルが高すぎてついていけないのだが…かえってカメラ担当で良かったのかも。
 哲塾から数日後にようやく資料を受け取った始末、 せっかくの講義を目の前に勿体無い。
次回までにレコーダーと資料と奮闘してなんとなく追いつこう。

 70年代はある意味で言うと終焉の時代だったような印象を受ける。
戦後は終わったとささやかれ、ロッキード事件での田中角栄辞任。
  赤軍派・連合赤軍によるよど号ハイジャック事件、忌まわしい内ゲバ総括殺人、あさま山荘事件等により、学生活動・左翼運動は一気に下降した。
 世論の関心が政治から離れ、経済成長による米国並の(敗退的な)消費社会、個(自己)主義社会の創世記ともいえるのか?
※あくまで小生の印象、妄想、なんとなく、もろもろ…。

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.3月某日どーんとまとめてお送りいたします◇◆◇◆◇◆

哲塾前夜の闘い〜第三夜〜
 毎週末に会議終了後、しばし上田先生と雑談。

 度の過ぎた資料魔と言う事は以前にも書きましたが、上田先生が新聞のスクラップについてこんなエピソードを語ってくれました。
「俺ぐらい新聞のスクラップしているヤツはいないよ(満面の笑み)。でもNHK事件記者時代にいたんだよ1人だけスクラップ魔が…
警視庁の記者クラブには常時各マスコミが交代で待機している。まぁ、大体が会見待ちで深夜は暇なので記者達はマージャンに明け暮れている。しかし、一人だけ部屋に篭っているヤツがいた。
部独り屋に篭って何か如何わしい事でも…と好奇心にかられて部屋のドアを開けた。そこには…
一心不乱に定規で新聞の記事を「ピリッ、シャーッ」っと切り裂く記者、傍らには乾きかけの障子のり。
「びっくりしたよ俺も当時からかなりスクラップ作りをしていたが記者クラブにまで持ち込まなかった。もっぱら皆とマージャン三昧よ(仕事がデキるから)。
 しかしダメだねヤツは切るだけ切って記事はそのまま、山積みになった記事を日付け、カテゴリー分けもせずベタベタ紙に貼りまくる。
当時はベース紙も高くて、膨大な量のスクラップ作成をしているからベース紙確保には困った。でもヤツはおかまいなくチラシにベタベタ貼っていくんだ。見栄えが悪いったらない。俺は違うよ、台紙も綺麗なモノを使ったし、カテゴリー分類も徹底してやってた。切り方だって……」
  つまりスクラップ製作にかけては自分がナンバーワンという事でした。
今でも会う機会があればどちらからともなく「(スクラップ)やってる?!」と聞き合うのが定例の挨拶らしい。
 新聞のスクラップと毎朝一番におくやみを読むのが上田先生の楽しみとの事。
おくやみ欄で栗原さんやで高校時代の恩師の訃報を知った時のお話はジーンときました。(長くなりますので割愛。聞きたい方はご本人から)

 おっと話が逸れた。哲塾前夜の話です。
「次回の哲塾の資料だけど…」鞄からゴソゴソと分厚い茶封筒を笑顔で取り出す。(不安度50哲)
「大変だったよ!家にある(山脈と化した)資料からあちこち探してこれはって資料の部分を抜粋、カッターで切ってのりで貼って綺麗に作ったよ。見てみろ、凄いだろ!」几帳面に作り、魂がこれでもか!っと満載の資料を高らかに上げる先生。(良く解らない恐怖度100哲)
完敗です。資料大幅増量サービスの18です。負けるな皆!堪えて頑張ろう!


▲美味しいカリー(^O^)

▲無残に切られたケーキ(TwT)

▲ホワイトデー収穫其の弐

▲ホワイトデー収穫其の参

土曜日はカリーの日
最近我がチームのお気に入りディナーはサムラートのカリー&タンドリーチキン。
インド人シェフっぽい方がいるらしく本格的で美味しい。リーズナブルでもある。お気に入りは辛口チキンカリー。
無論ビールも摂取。これで深夜のパソ(コン)ワークを乗り切る?

ホワイトデー
バレンタインのバラマキ効果が反映したか今年のホワイトデーは大量Get!(無論全て義理…)
甘いモノが苦手なので恐らく事務所のおやつに流れる事決定ですが、皆様ありがとうございました。
中でもウラ世論委員チアキちゃんから何と小振りながらオレンジムース入のケーキ1ホールを頂戴した。綺麗なケーキだったのでデジカメで撮っておかなきゃ!とデジカメを用意してさぁ、記念写真よ!と振り返った瞬間。目の前にはすでに無惨に切り刻まれたケーキがぁ…。
「おい!撮影が先だろ!ガっつくんぢゃなイ!」と怒る気力もなく涙を飲んで切れ端をパシャ!お茶1リットル弱と共に頂きました。
美味しかったです。


▲ノリに乗ってる沢口さん
ニセワッペイと本物和平のガチンコ対決!
トリックスターで鈴木邦男さんと「光の雨」著者立松和平氏による「連合赤軍」トークイベント。
立松和平と言えばトリックスター社長プロデュースのコント集団「ザ・ニュースペーパー」で渡部さんが毎回モノマネをやっいるあの立松和平である。モノマネしか見た事がなかったのでとうとうホンモノが見られるのねとワクワク。
オープニング
やっぱり立松(渡部)ワッペイさんの登場!気持ち緊張ながらに本物和平さんを紹介。立松さんは渡部さんに生暖かい一言二言を贈り、イベントの幕が開けました。
私も活動は多少なりともしていた。しかし私は彼等と同じ列車に乗りながら途中下車してしまった。途中下車していく者が続出する中、彼等だけが終点まで列車に乗っていた。ただ、その終点が誰も思いつく事もできない悲劇であった。
私は「連合赤軍」と同じ時代に同世代として生きていた。作家としてこれ(連合赤軍)は書かなくてはならないとずっと思い続け、資料を集め地道な努力を重ねながら「光の雨」を完成させたと聞いて、思わず「感動です。(ワッペイ風)」とつぶやいてしまいました。
その後塩見孝也氏も乱入(?)盛り上がりました。立松さんは今、15年戦争の中国戦線の通信兵をモデルにした新作を製作中との事を聞き「えっ、佐藤さん?」と思わず自分が今編集中(停滞中)の佐藤禎さんかと思いましたが他の人のようです。(通信兵と聞いて佐藤さんしか思いつかなくなってしまった…)平和と自然を愛し、不戦の兵士について熱く語る立松さんに是非ウチの事を知って頂かねば!帰ろうとする立松さんを呼び止めて早速「戦場体験放映保存の会」「戦場からの証言」について軽く説明。ビデオを後送するとお約束して名刺交換。
立松さんが帰ってからも鈴木さん、塩見さん&ロフトの平野さんも加わりの熱いト−クが続く。思わぬ収穫もあり、お腹一杯でした。

青い部屋反戦ストリッパー沢口友美さんのイベントに行く。
何のイベントかというと「ピンク映画」と「ストリップショー」です。
イベント後しばし古澤氏、三澤氏、途中から沢口さんも交え談笑。
4/15に浅草木馬亭にて浪曲家バタイユ氏司会。ゲストに古澤氏、沢口さん、横山氏を迎えイベントを開催するとの事。行きますよ。
渋谷駅までバタイユ氏、古澤氏、三澤氏と一緒に。自分はそのまま事務所へ、軽い打ち合わせ後、事務所泊。

マンスリーライブ:ザ・ニュースペーパー
 すいません遊んできました。やっぱりニュースペーパーは面白い!
前説で「人独り言って聞くとおもしろいよ!」小話をした桑山さんが同じ群馬出身と分かり親近感わくわく。
 帰りにプロデューサー杉浦さんより「3/31の塩見塾は来てね!哲塾もやろう。トリックでの鈴木さん、塩見さん、上田さんのイベントから多才な知識を取り込んで皆も勉強になるし、TNPも深い笑いを探究できる。いずれ良い成果を生み出せるようになるから。」と激励される。
鈴木さんもいつもそう言って下さる。(しかもイベント中に、恥ずかしいですが)有り難い限りです。真面目にトリック定例イベント化しますか?

◇◆◇◆◇◆◇◆2005.3月某日ピースリレー「『東京大空襲』を学ぼう」◇◆◇◆◇◆

 ピースリレー100本の道をつなぐ会(2005年3月10日〜2005年9月11日「東京大空襲」から「911」までを、戦争の痛みを負った過去から、現代をたどる期間として、期間中全国各地で行われる多様な平和・反戦運動を各人が思い、歩くさまざまな道という意味で「100本の道」(多様な道)を地域から地域へ、人から人へ、リレーのようにつなぐ運動を目指す会)で行われれるイベントに同行。

 朝、【東京】頑張れピ−スリレー!‘『東京大空襲』を学ぼう’に参加・取材の為、墨田区の両国にある横網(よこあみ)公園・慰霊堂。
寒い…少し早めの到着。寒空の下、アンパンに野菜ジュース、コーヒーを胃に納めながら構内を見回す。
今日は東京大空襲遺跡巡りツアーに同行するのだが主催者と面識が無い為、「それ系の匂い」のする人を検索しようとするのだが、慰霊堂前にはまさしく「それ系」のコミューンが点在…「どれだ?!」
 3月10日直前の日曜日ということもあり、被害の酷かった墨田区をはじめ、都内各地で空襲で亡くなった方の慰霊祭やイベントがが行われてる。
待ち合わせの両国横網公園慰霊堂前では「うちは○○グループです!」「△△グループは何処にいますか?」の声が飛び交う。各団体入り乱れてます。

 寒い中でのフィールドワークはキツかったですが、普通だったら通り過ぎて見逃してしまいそうな、ごく小さい町内会で行われていた空襲写真展を見ることが出来ました。
 お昼は両国ならではの「ちゃんこ鍋!」。イッキに冷えた身体がポカポカと温まり、あぁ、これで熱燗なんぞキュウ〜っとできたらなぁ…。

 午後からはメンバーチェンジして六本木ヒルズで開催中の「東京大空襲展」をぐるっと一回り、母が空襲、伯母が学童疎開を経験しているせいか、展示物の写真や疎開先の子供に届けられた両親からの手紙の数々をみるにつけ、ジーンとしてしまいました。
&イベント観覧。有名人がなんかやってましたが、とにかく寒い!小刻みに身体をスイングさせて暖をとろうと無駄なあがきをしてみる…無駄でした。
  朝から三脚を素手で担いで走り回ったせいもあり、指が軽い霜焼けになってしまいました。

「東京:東京大空襲を学ぼう」に参加した際、私たちと同じく元兵士の体験談をビデオに撮っている方にお会いできました。
また、イベント終了後、他の地域の懇親会に何気なく参加した時、いつものように私たちが取り組んでいる戦場体験放映保存の会についてアピールしたところ、参加者のご夫人が私の方に駆け寄って「私の父が学徒徴兵で戦場経験があるのです。父は自分の体験を若い人たちに伝えなくてはいけないと言って、機会(集会等)があると体験を語り歩いています。ぜひ父を取材してください。若い人たちがこんなに一生懸命戦場の記憶を集めて残そうとしているのを聞いたらきっと喜んで取材を受けます。」と反対に取材を頼まれてしまいビックリしました。
 何せそれまではどうしたら元兵士にめぐり会えるのだろうか?世論力テレビでもインターネット上で元兵士の情報を募集し、わざわざ出版元から戦友会名簿を購入し、手紙を出しまくったのにも関わらずこれといった返事もこないままで途方にくれていた矢先にふと転がり込んだ吉報は大変嬉しかったです。
 この懇親会ではその他にも元兵士の方を2人も紹介してもらい、すでに1人の方は取材が決定しました。

外に出て、人と会い、交流すると思わぬ反応・情報や、協力を得る事ができ、事務所に篭って云々と悩んでいたのが嘘のようです。
フィールドワークは宝探しのようなワクワク感があり、いろんな人と出会うことが出来るのでとても楽しい。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆2005.2月某日オフショット:上田哲生誕XX周年◇◆◇◆◇◆◇◆

よりによって2・26生まれとは、運命的なモノを感じます。確か野村秋介氏の誕生日がバレンタインデー。事件や記念日に誕生日の人って結構いるんですね。

◆うまい話にはウラがある!世の中厳しいのよ!
ちょうどこの日はまず、上田哲の直言バースデーエディション収録。テーマはライブドアっだったらしい(未見の為流れた噂によると)

「上田哲お誕生日パーティにご招待!」と騙された参加者数名、しかし実は、戦場体験放映保存の会プチ総括会がメイン。
鮨がお預けのまま総括会が終わったと思いきや、続いて哲塾総括。

本日の教訓:問いかけには感じたことを正直に声を大にし即答せよ!黙ったままいるヤツは…

やっと鮨…いや、上田先生の誕生パーティー開催
いや、いいんですよ。ケーキの代わりに大福を用意したのはその方が先生喜んでましたから…。
しかも、先生満面の笑み、暗闇に浮かび上がる火が灯ったロウソク&大福…それを見つめる世論力メンバー、世論から何かがずれている。
プレゼントは「ひざ掛け」喜んでいただけました。

※お知らせ
 PCがCDRを読み込めなくなりました。すこぶる不便です。入院させるとサイトの更新そのものができなくなりますし、ジリ貧の為入院費もありません。

 誰かウチのPC診てやってください!(かなり深刻)


▲大福に灯るのは希望の光か?

▲女性からの花束のプレゼントに笑顔!

▲願い事を込めてロウソクを消す図
◆◇2005.2月某日:シーレーンから2+2へ哲塾第一項第二回目開塾!
△J・馬場ではありません。
△熱弁!先生熱すぎます!  

◆ファントム空中給油はさせないぞ!上田激闘時代!
  しかし、現在は…


哲塾二回目。また雨です。正直、回を重ねる度に解らなくなってきています。
本当に日本がこのように戦後を歩んできたとはまるで実感が感じられない。どっかの遠い国の近代史を聞いているようです。
  そこまで政治が世論とがかけ離れたところで、我々の知らない内にポンポンと軍事同盟が結ばれているのは尋常ではない!
 今回は国会での上田vs田中質疑応答の再現朗読会が行われて単に目で議事録を追うよりも面白かったです。

 今回は憲法というよりも国会でまだかろうじって生きた政治ってモンが行われていた時代と国会はただの器だけのものとなり、野党皆無、談合政治へ向かう分岐点を核に講義が行われたんですよね?すいません。撮影も兼ねていた為、講義に集中できませんでした。講義録聴きなおします。

卵はゆで卵しか知らない者に、卵が生の時は白身は半透明で黄身も白身も固まってなくて半固形だったんだよ、焼けば目玉焼き、蒸すと茶わん蒸し、油と混ぜるとマヨネーズができるんだよ。と説明されてもなかなk想像できない。
う〜ん書いていてますます訳がわからない方向へ…。
現在、世論からかけ離れ過ぎてしまった政治はそう遠くない昔まではまだ改良、改善の余地があったのか?そうなのか?

 上田先生の様な歯止めとなる政治家がいない今、どこまで暴走してしまうのでしょう?不安。

「こんなバカな事(政治)ばっかりまかり通る国なんかとっとと脱出して、皆でバナナのなる南の島に移住でもしよ!」
と以前マジなのか本気なのか判断に困る 発言をした上田先生の言葉がかなり本気っぽく聞こえるに500哲!?

※すいません。講義録をきちんと聴いてからもう少しまともなレポートアップします。

◆◇2005.2月某日:戦場からの証言〜ちょい北旅情編〜

△磯原駅前にて石森さんと営業クン

△戦友の位牌をじっと見つめる…

△シベリアにて作業中、誤って
  潰してしまった指は 60年経った
  今でも 爪が変形している。

◆初出張、片道3時間のプチ出張!
「街戦車で行きましょう。」瀬川局長の第一声で皆凍りつく…。
去年の選挙で上田先生が散々「ポンコツ車」「押した方が速い!」と酷評され続けたアレですか?
恐怖です。確か最終演説で屋根壊してませんでした?
必死で「動くな〜、エンジンかかるな〜」と念力を送って一夜明け。まだ寝起き時間に瀬川氏から事務所に電話が。
「なんか今朝から車の調子がすこぶる悪い。何故だろう?仕方が無いので別の車手配しました」との連絡あり。
急遽別車両で茨城へ行くことになりました。恐るべし念力使える…ふっ…

やはり高速道路を利用しても北茨城市まで3時間、運転する瀬川局長に気遣いもせず、寝る、ひたすら寝る。

磯原に昼食、レストランのおねいさんに「磯原の名物って何?」と聞くと「磯原まんじゅうですね。いつも3時には売り切れちゃいますよ〜。」これは買わねば!お店の場所を教えて頂き、取材後の「磯原まんじゅう買い占め計画」を練る。

◆取材です!
磯原駅に定刻1時に到着。すぐに 石森さんと合流、ご自宅へ向かう。
ご自宅では奥様が暖かく出迎えてて。落ち着くまもなく取材準備。
仏壇の傍らに戦死した戦友の為の鎮魂牌が置かれている。石森さんはそれを見つめながら「私が死んだらもう引き取り手がないんです。」と寂しそうにおっしゃいました。

 事前に石森さんが朝風の会機関紙に連載していたシベリア抑留生活体験記を読んでいましたが、やはり直にご本人からお話を聞くと話の伝わる深み、重みがぜんぜん違います。
思い出すのも辛い体験を時折、言葉をつまらせながら、私たちに根気強く語ってくれる石森さんの姿に答えるべく、この言葉を後世に引き繋ぐ為に頑張ろうと気持ちを新たに確信、取材を続けます。

◆石森夫婦はベストカップル!(営業談)
 取材終了後、せっかくだからお茶飲んでいって下さい。との石森夫婦のお言葉に甘える。
ご自身が手作りで作成した地図や資料、当時の様子を描いたイラスト等を拝見させて頂く。石森さんの生真面目さが伝わります。傍らでは奥様がお茶を入れ、なんと自家製の甘酒までわざわざ作って、もてなしで下さいました。

 しかも、お茶請けには、昼食を取ったレストランのおねいさんから聞いたあの磯原銘菓「磯原饅頭」が鎮座しているではありませんか!ラッキー!石森さん曰く「この磯原饅頭は戦前からあってね、戦後の食糧不足の時は砂糖の代わりにサッカリン、餡はさつま芋を足してまで造り続けて、地元の人に親しまれながら食べていたんですよ。」
なるほど〜、普通の温泉饅頭の3倍強のボリューム、しかも美味しい。作り手の饅頭への熱意がいっぱい詰まってます。
 普通の饅頭でさえ、1個食べるのに3杯のお茶を必要とする為、美味しいながらもこの饅頭のボリュームはかなりのお茶が必要…。ヤバイと思いながらも出来るだけお茶を控えるようにして頑張って饅頭を頂く。過剰なまでに餡がビッシリ!隣では甘党の営業Sが満面の笑みを浮かべてモグモグ食べている。羨ましい…。
無意識の内に大量のお茶を摂取してしまい、
奥様にせっせとお茶を注がせる→「ゴボゴボッ、ボコッー」(ひえ〜)→ポットのお湯が無くなる→奥様急いでお湯沸かす→またも奥様にせっせとお茶を注がせる。奥様部屋中、右往左往で大忙し…ごめんなさい。
とんでもなく厚かましい無礼をしでかしてしまいました。すいません。
 しかも「饅頭美味しいですね」なんて言ったものだから「じゃあ、いっぱいあるから持って帰ってね。」と包んで持たせてくれる。すっかりご好意に甘えっぱなしで恐縮しながら、石森家を後に。
 帰り道、事務所用や自宅用に買っていこうと「磯原饅頭」のお店に寄ると すでに「売切れ」本当に凄い人気なんだと実感する。石森さんから貰っておいて良かったぁ!そうして安堵のうちにプチ出張は終了したのでした。

◆◇2005.2月某日:ど〜んとまとめて贈ります!表もボチボチと…?

◆戦場体験放映保存の会がジャパンネット銀行口座開設
まぁ、今までゆうちょのみ入金方法しかなかった為、気軽に自宅から、24時間年中無休での振込みが可能なネットバンク口座を開設。これでガッポガッポいや、より多くの賛同者を募ろう!を意気込んでおります。仮にもインターネットテレビなので、はいてく&サイバー色出してみました。

◇音声認識ソフト導入!「哲」声仕込み。これで哲塾講義録は万全だぁ!?
哲塾の講義録濃いの文字起こしは紅葉狩りの軽装でエベレストを制覇すると同じくらい困難な事。しかし講義録はきちんと残しておかねばならず、とうとう音声認識ソフトを血反吐を吐く思いで導入することになりました。
しかし、所詮は機械。事前にパソに哲声を仕込まないと文字起こしが出来ない。本当は講義中上田先生にインカムマイクを装着した方がベストなのだが、アクティブに動きまくり、コードを絡ませ、挙げ句の果てには途中「ウザイッ!」とインカム放り投げる指数1,000,000哲…。
こうなったらICレコーダーでしか哲声を拾う手段はない。
上田先生にオドオドしながら20分程度のどうでも良い例文をおしとやかに読んで下さい。」とお願いする。つっかえてもそのまま読まなければならないのに真面目な上田先生、キッチリ読み直す読み直す。「いいです、直さずそのまま読み続けてで下さい。」なんでツッコミを入れられるヤツが居るはずもなく、「ダ、大丈夫かぁ?」と一同不安。でもなんとか読み終え、早速音声入力。
結果、う〜ンやはりイマイチ。ダメモトで前回の哲塾音声をテスト(しばしドキドキしながら待つ)
結果、「どぉ〜すんだよ!」地獄の一丁目がチラつく…。やはり哲声を機械に認識させるのは無理なのだろうか?
もうしばらく哲声を仕込みをしないと使えない。「後一時間くらいパソの言う通りの音声検証を上田先生にしてもらわないとイカンな、誰か先生に頼んで
よ!」…沈黙…どうして誰も返事しないの!(泣)


◆哲塾前夜のたたかい:大好評!?につき、二夜目突入!(泣)
上田先生は次回は資料を減らすと公言しました。確かに減りました。今回の資料は10…です。た、確かに前回の11よりは減ってます
2回目も頑張るぞ!

◆初出張は磯原(茨城県)、戦場証言取材決定!
やっと決まった念願の戦場証言の取材。S氏アポ取りご苦労様!
しかし去年の選挙で上田先生が散々「ポンコツ車」「押した方が速い!」と酷評され続けたあの街宣車で行く事になりました。北茨城まで走るのか?持つのか?生きて帰れるのか?違う意味でかなりエキサイティングな取材になると思います。後日生存者よりハラハラドキドキの冒険記をお送り致します

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ここんところのオフショット◇◆◇◆◇◆◇◆

◇ヤバイです!「ウラ日記」上田(ボス)が読んでいるらしいぞ!地下に潜れ!
マジで隠れよ。

◆銭湯デビュー秘話「独り・神田川」編
週末事務所合宿が習慣になり、マンガ喫茶でコインシャワーを数時間待ちしたり、「2日ぐらいフロなど入らんでも死なん!」と開き直ったりしてましたが、とうとう最寄
りの銭湯通いをする事になりました。
銭湯デビューは独りぼっちで寂しかったのです。が、湯舟に入れば心もあッたか
銭湯っていいね〜。ブクブクでるよー、気持ち良いね〜!極楽、極楽、とうなっちゃいます。
出たら即コ−ヒ−牛乳(ビン限定!)腰に手を当てイッキ呑みですよ。で、事務所帰ったらビールですよ!無論その後
仕事ですが。

◇越冬のソナタIN渋谷「ドンキで毛布購入、ロッカーパンパンです!」編
冬は寒い。今まで、夜のお供である1枚きりの「ぷーさん毛布」争奪戦?だったのですが、寒い、もう我慢出来ません。
放火事件からビミョ〜に通路が広くなった深夜のドンキへレッツゴー! 毛布を抱えハイな笑顔でレジに並ぶ怪しい客2人。
毛布って 暖かい…その日は思う存分毛布にくるまれ朝までグッスリ眠れました。
これで冬は越える!

しかし、ホクホクの幸せから、イッキに現実に引き戻される冷静な一言が発せられた…。
この毛布どこに仕舞うの?」たった3つしかないロッカーはもう皆のお泊りセットで一杯イッパイ!
圧縮ひたすら毛布を圧縮する。どうにかロッカーに収まったものの、パンパンではちきれそう…。
まるで体育界系の男子学生部室のような雰囲気 にも関わらず、一同ケロッと「まっ、しょうがないよね〜」たくましい。


◆「3年目の浮気」解釈 論争勃発!内ゲバなるか?
「3年目の浮気」という歌がありますね。皆様はあの歌の背景をどう解釈しますか?
思わずカラオケで「3年目の浮気」を熱唱したくなる。そんな気分になれるエピソードをひとつ。

戦場体験放映保存の会の呼びかけタイトル「60年目の呼びかけ」という部分で一悶着
がありました。
「60年目にしての呼びかけ」派に対して反旗をひるがえしたヤツが…
S:「だって60年目っていう表現は毎年呼びかけているって事になるのでは?」
R:「いや、60回目とは言っていない。回数としてカウントしてないだろ!」
S:「いや、違いますよ、だって…。」
等ナド…平行線の会話が続く。
もう、煮え切らないので
R:「ぢゃあ!「3年目の浮気」はどうなんだよ!交際か結婚してから3年目でついうっかり浮気しちゃったって歌だろうが!」
しかし思いもよらぬ返答が、
S:「あれは浮気が続いて3年目っていう歌ですよ!」
R:「…ハァ?、おい!3年も浮気してて「3年目の浮気ぐらい大目に見てよ」なんて開き直るバカがいるのか!道徳的に放送禁止ぢゃないか!」
S:「いえ、絶対3年間浮気してたんですよ。」
ダメだ…。
ちなみにこのS氏、ロシア収容所の戦場証言の文字起こしでなぜか話しにも出ていない、ロシアに生息すらしていない「黒松」(天然分布は、本州北部から四国、九州に至る。また、朝鮮南部や済州島にも自生する。)を表記し、指摘されたのにもかかわらず「ロシアにはロシア黒松があるんです。」と言い切り、さらに、 「着たきりスズメ」を「舌きりスズメ」と文字起こししたツワモノ。
S: 「着たきりスズメ」なんて言葉は知らない、「オオカミ少年」みたいに嘘ばかり言っていると酷いめに合うって意味かなぁ思って。」
(いや、その解釈でも話しの流れが繋がらないと思います。)
と言ってのけた大物。なかなか見つかりませんこんな逸材。今後が楽しみです。

◆◇2005.2月某日:「ジャパネット…いや、ジャパンネット銀行口座開設」

◆戦場体験放映保存の会がジャパンネット銀行口座開設
◇音声認識ソフト導入!「哲」声仕込み。これで哲塾講義録は万全だぁ!
◆哲塾前夜のたたかい:大好評!?につき、二夜目突入!(泣)
◇上田哲の直言収録「かんばれ!三宅島島民の皆さん!」
◆初出張は磯原(茨城県)、戦場証言取材決定!


…以上てんてこ舞いの日々ですが…
「ウラより表仕事やれ!」
状態です。
崖っぷちというより崖から落ちている途中の為(泣)、表に区切りがつくまでウラ日記はお休みさせていただきます。
全国ごく数人のウラ日記ファンの皆様、ちょっとだけ待ってってね!

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆今日のオフショット◇◆◇◆◇◆◇◆

◇ヤバイです!「ウラ日記」上田(ボス)が読んでいるらしいぞ!地下に潜れ!
◆銭湯デビュー秘話「独り・神田川」編
◇越冬のソナタIN渋谷「ドンキで毛布購入、ロッカーパンパンです!」編
◆「3年目の浮気」解釈 論争勃発!
ナドナド、オフショットネタだけは尽きることが無いのですがこちらも後日まとめてお送りいたします。
お楽しみに!

◆◇2005.1月某日:静かな週末、嵐の前の静けさか?


▲シベリア慮収容所から日本の家族のもとへ届いた手紙。ギリギリ読める小さな文字でびっしりと家族への想いが埋めつくされている。
※収容所から日本へ手紙を書く事が出来たのは将校クラスの人だけに限られていたそうです。

哲塾から一週間明けました。 
戦場体験放映保存の会の会員証&角判がようやく出来たので発送作業。
哲塾終了後、 営業ぶちょーを初めスタッフ皆お疲れモード。上田先生に至っては、哲塾、百万の声編集とかなり短期集中にエネルギーを消耗したため、かなりお疲れのご様子。声がワントーンほど下がっているようです(当社比)
次回の哲塾に備えて今週はまったりモードで仕事を進行する事に。

町田へ急げ!!

前回取材した村西氏んP所属する「朝風の会」の会報の編集を手がけている 谷田川氏へお話を聞きに旅立った。独りお留守番寂しい…。
谷田川氏とお話できた委員の報告を聞くとご夫婦揃って平和運動に携わっているという様子が感じられます。
特に奥様の采配ぶりは素晴らしいらしい…

お土産は…ラブレターフロムシベリア捕虜収容所

谷田川氏では新たに2名の取材が撮れそうになりました。
戦利品はそれだけではなく
シベリア収容所から家族に宛てた手紙やノートの数々!凄い!日頃見る事のできなかっら貴重な資料を拝見できました。

みんなで見ました!満蒙開拓青少年義勇軍アニメ「蒼い記憶

先日取材した元満蒙開拓青少年義勇軍の村西さんより届いたアニメ映画「蒼い記憶」ビデオ鑑賞。
◆◇2005.1月某日:「哲塾:後編〜メルマガに越されました〜」

▲教室でやりたかった理由…



▲芸術的な(自称)
  日米安保60年の軌跡完成!
 (いえ、本当にすばらしいです!)



▲おぉ〜!(すいません流用で)

PCの具合が悪く、四苦八苦している間に「哲塾」報告がメルマガに越された。悔しい…。

永世中立国とネットの辞書で調べると「スイス・オーストリア等の国」となっている。日本の「に」の字も無い。恐らく辞書の作り手もまさか自分の国が永世中立国であると思った事もないのだろう。

ここまでの吉田茂は評価できる
さっきまで資料は各自読んでおくようにと言っていた上田先生が初めて「ここは読みます」と「資料5」を読み始めた。昭和二十一年6月27日に行われた、憲法成立直後、衆議院帝國憲法改正案の議事録に記録されている吉田茂の言葉である。
「次に自衛権についての御尋ねであります、戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定はしていりませぬが、第九条第二項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります、従来近年の戦争は多く自衛権の名において戦われたのであります…(拍手)」
古めかしい漢字とカタカナ(旧漢字とカナ)で記された速記録を声高らかに読み終えた上田は「素晴らしい、ここまでの吉田は評価に値する」と力説。正直驚きました。続いて「資料6」昭和二十一年6月29日議事録も一気に読み上げる。
まさか、吉田首相があの時代背景の中、きっぱりと軍備の所有と交戦権を否定し、近年の戦争は多く自衛権の名において戦われたと言ってのけたと初めて知りました。
しかし、その発言はガラッとひっくり返される事となってしまった…。

日米安全保障(はぁ?)条約って何様。
もっともらしくサンフランシスコ条約第6条には「連合国のすべての占領軍はこの条約の効力発生の後、なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国から撤退しなければならない。」
第一、講和条約は、日本の主権の回復のためのもの。だから占領軍は「いかなる場合にも、すみやかに撤退しなければならない」 との記述。サンフランシスコ講和条約を知らないというバカがいる)
当たり前だ!出てけよアメリカ!」60年の時差ボケを忘れマジに怒る(再びバカがココにいる…)
しかし、はらわたが煮えくりかえる驚くべき続きがあった。
「但し、この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多国間の協定に基づく、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐屯又は駐留を妨げるものではない」
はぁ?言ってる事がぜんぜん噛み合って無いだろー
マジにこんなモンに同意すんなよ!シゲルぅ〜!この後、日米安保は今日までずるずると続く、悪夢の始まりとなる。

フライングはやめてください
70年直前に日米両国は1969年、つまり次の安保更新(嫌な表現)の前年に「佐藤・ニクソン共同声明」で両国はこの安保条約を堅持することを表明(するなよ)
しかも、「この条約は、日本区域における国際の平和及び安全の維持のため十分な定めをする国際連合の措置が効力を生じたと日本政府及びアメリカ合衆国政府が認める時まで(何故オマエが決める?効力を有する。もっとも、この条約が10年間効力を存続した後は、いずれの締結国も、他方の締結国に対しこの条約を終了させる意見を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行われた後1年で終了する」」
1970年以降、日米安保は「いずれか一方(アメリカのだろ!)から『条約を終了させる意見を通告すること』がなければ継続し続ける…。」まるで見てもいないのにさっさと自動更新されてしまっているNHKの受信料の如く、頼んでもいない(?)のに永遠と米軍が日本の地に居直り続ける事になるという。

60,70年安保反対闘争は何だったんだ…(泣)
〆に上田先生は、「このように日米軍事関係は欺罔の中に半世紀を過ごし、いよいよ第4次安保に突入した。」言った
如何に自分の国を知らなかったのかが重い知らせれた2時間。一体どこの国の話をしているだと思ったほど、己の無知蒙昧さと現実に今までに感じたことの無い恐怖で背筋が凍った。参加者に恐怖を植え付け、「哲塾」第一回は幕を閉じた。

とにかく、驚きと驚愕の連続で哲塾は始まりました。
しかし、 一ヵ月後の第2回目までに、講義ではサラッと受け流され全く詳細に触れていなかった膨大な資料ををきっちり読み込まないと、次回へ進めないと判明。
「哲塾」 はあくまでも予習の場所。次回の「哲塾」までに各々資料を読み込み、知識と見識力を身に着けなくてはならないのが本授業である。(恐ろしい…)
早くも半年後の第一期修了までの生き残りをかけたサバイバルゲーム の雰囲気です。がんばりましょう。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆今日のオフショット◇◆◇◆◇◆◇◆

哲塾後、会議。結局この日、天気予報は外れ雪にはなりませんでした。
議題は先週に引き続き「戦場放映保存の会」 について。
会議終了後、まだまだ興奮冷めやまらぬ上田先生が「今日は疲れたなぁ〜」 (あれだけアクティブに動けば…)と嬉しそうに語りながら家路に。お疲れ様でした。

まだまだ、事務処理…のはずが。事務所で真面目に仕事をしているスタッフを残し、まだ小雨の降る渋谷の街へGO!
ウラ世論委員さんと共に打ち上げです。

明日の「プレミア」研修をひかえているのに大丈夫か? RE:大丈夫です!(酔)
前途は多難…。

プレミア研修の巻
まだ雨、午後から川口スキップシティへ向かう。映像編集ソフト「プレミア」の研修です。
暮れに簡易版「プレミアエレメンツ」を購入したまま操作方法も解らず。熟成させておりました。
世論力テレビでは編集者不足がかなり深刻な問題となっているため、世論委員の編集技術習得は必須課題!焦ります。ハラハラです。二日酔いです…。

  インストラクターが爺…いや、ナイスミドルな方ばかりでびっくり、「こんなジジ…いや、おじさまたちが出来るのだからこっちが出来ない事はない!負けんぞ!」と勝手に勝負体制。
受講生もイイ年…いや、ナイスミドル中心、日頃は若手メンバーの片隅にさえ入れてもらえない小生だが、ココではナウなヤング!勝った(何に?)
 いや、若いと浮かれていてはイケナイ。小生は二日酔い、ハンデはゼロどころかマイナスに近い。真面目に取り組まなくては置いていかれる。必死で受講。
受講生10名に対して5名のインストラクターがついていたので講義に取り残される人もなく、フォローも完璧!インストラクターが全てボランティアでだという。素晴らしい。

 とりあえずの基礎を学んでいよいよ、各自が用意したビデオを編集。子供の発表会や琴の演奏会の映像を持ち込んでいるのに対して独りだけいた、とんでもない映像を持ってきたヤツが…。

「戦争をしてはならない!私はこの1点に全ての力を集中してこの選挙戦を貫いてきた!」
幻の参議院選挙戦最終日、最後の新宿演説で吼える上田先生の言霊が会場内に響く響く響く響く(ふっ、注目の的。何ともいえぬ優越感、また勝った!)
時間が無く、5分程度の編集しか行うことが出来ませんでしたが、どうにかソフトは触れる(バージョン違いですが)ようになったみたいです。後は慣れるしかない。
とにかく、カンで動かす!マニュアルに頼るな!体で覚えろ!我流PC習得3原則をモットーにヤリます。
でも…肝心な感性がどうにもならない…う〜ん。


やっぱり3月もう一度行きます。

◆◇2005.1月某日:「哲塾:前編〜とうとう始まる!〜」
▲さあ、始まった! ワクワク

▲ベルベデーレで撮った銅版だ!

▲おぉ〜!

前日からの雨がまだ降り続けている。天気予報では雪になるらしい。
「学校というよりオフィスビルだよびる!」日本デザイナー学院のデカさに素朴に驚く。会場は7階、「教室だ!」当たり前…。


川上塾頭の挨拶からとうとう、哲塾が始まりました。


2005年、日本は第4次安保体制の年になる!
イラクへの自衛隊派遣にはじまり、更に一年間の自衛隊派遣延長が決定されているウラで政府は60年分の軍事体制をたったの一年で変えてしまった。 ミサイル防衛網・武器輸出三原則改定・防衛大綱改定これらによって日本は戦後60年保たれていた「戦争をしない国」は崩壊したに等しいって事。(うっぅ〜;ToT;)

33年間、国民を騙し続けた政府を暴いたのは…
今では当たり前の事ですが、日米が「軍事同盟」を結んでいると初めて政府が認めたのは1984年2月21日に行われた衆院予算委員会で上田哲が中曽根首相に対し、日米関係についての質問に対して答えた中曽根によって日米安保は軍事同盟だということが33年目になって初めて認知された。このことは当日の朝日新聞の夕刊に米大統領予備選挙を差し置いてトップを飾ったが、他のメディアには一切取り上げられなかった。まさに当時の世情を現していたとの事。
その新聞記事と答弁議事録が資料として配布、各自よく読んでおくように!(しかし、国民には33年間も軍事同盟を結んでいると一切知らせてなかったって、それはないだろう。)

中立平和思想と中立政策とは何か?

今の日本の軍事体制がいかに捻じ曲がっているかを正しく計るための「ものさし」が必要、それが憲法である。そして…
「日本国憲法が永世中立憲法だとしっかり見定めなくてはならない!」
(えっ?日本ってスイスと同じ中立国だったの…。衝撃です!) してやられました。上田先生、議員手帳を高らかに上げ、続けます。
上っ面だけのポリシーの無い解釈はするな!(はい。)
引きこもり中立と永世中立との違い。永世中立とは常に平和を追い求めていく積極的な中立論のことである!(日本はそうあるべきなのか…)

中立国というものは1802年6カ国の列強に囲まれたマルタ島か…
キンコンカーンコ〜ン、キーンコンカーンコ〜ン突然鳴り出すチャイム学校だ…、
…このマルタ島は現在の日本と非常に良く似ている。(怯まず続ける上田先生)
1815年ウィーン会議にてスイスも永世中立国へ、しかし、私たちはスイスの平和中立への誤解を解くことが必要。
永世中立政策3パターン(4形態)については資料10「上田哲著:逆走の「非武装中立」からの抜粋部分を熟読するように!(はい。)

しかし二次大戦後のオーストリアの国民議会が占領4ヶ国に対して永世中立を宣言し、さらに国家宣言によって永世中立を世界に宣言した際、日本が真っ先にオーストリアに祝電(?すいません曖昧です)を打った!この時はまだ日本は真っ当な国だった!と熱っぽく語る。
議員時代オーストリアへ行った時、
ベルベデーレ宮殿ホールの床に銅版が埋め込んであるのを気になって写真に撮って帰国後その銅版を日本語に訳してみると次のような事が書かれていた「オーストリアの自由と独立に関する条約がこのホールで1955年ソビエト、イギリス、アメリカ、フランスの外務大臣とによって調印された」まさにそこが永世中立宣言が行われた場所だったと知っていたく感激したそうです。
資料3にその銅版の写真と下には上田先生に「わが国は本当に小さいのです。どんな国の軍隊だってたった3時間で国内を突き抜けることができてしまいます。だから戦うなんて意味がないのです。列強4カ国のバランスの上にうまく乗っていかなければ生きていけないのです。」そう語ったオーストリアのフリッシュンシュラッガー国務大臣にまた感動し、とヨーロッパの地図をバックに腕を組んだ写真も二人ともいい表情です。(感動的な話ですね〜)

◆◇2005.1月某日:「哲塾前夜のたたかい」
「どうしても教室でやりたい!」
上田先生はそう断言した。すでに勤労会館は空きが無く、30名近くを収納(?)できるのはルノアールの大会議室しかないと考えていたが
「そんなとこでやれるか!」とあっけなく却下。
一気に血の気が引いた。しかし、刻一刻と哲塾の期日は迫ってきている。半分泣きながら解決策を模索していると…

「日本デザイナー学院の教室が手配出来たからそこでやる」
再び上田先生より、何ごとも無かったようにスラっと連絡が入った。


「えっ?」
スタッフ一同、がく然…、この時、哲塾開塾まで2週間を切っていた。
とにかく会場は確保できたので良かった。しかし、だったら最初から…、今までの…、この…。
※なんでも学院の偉い人と知り合いでそのつてで教室を借りる事ができたそうです。

気を取り直し、れじゅめ作成
上田先生はウキウキしながら年末から資料作成に勤しんでいたらしく、予想はしていましたが…。
哲塾の所要時間はわずか
2時間。たった一回5章にも渡る大河ドラマなみの構成、資料12にも及び、資料魔を自称するに相応しいボリューム。
満干全席のれじゅめ作成を目の当たりにし、すでに消化不良気味、気が遠くなる…哲塾前夜。(小生だけね)

◆◇2005.1月某日:「世論委員会議と上田哲の直言収録」


▲お茶をグッと飲み干し

  「直言」収録3分前…


▲「直言」収録10秒前…
 精神集中

「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。」との新年の挨拶から2005年初めての世論力テレビ編集会議が始まる。
 年末に発足したばかりの「戦場体験放映保存の会」のグランドイメージが発表。それらに基づき今後の保存会運営、アナログ&ハイテクによるハイブリッド賛同人「呼びかけ人」獲得計画について熱く議論。
賛同金徴収を手間と時間に制限されている郵便振込だけでなく、ネット決済でも出来る様に検証中、賛助会費の振込手軽にできるようになって、賛同者「呼びかけ人」がどっと増える事を切に願う。

会議終了後、「上田哲の直言」新春バージョン収録。いつものことながらNG無しの1テイクで終了。

初詣の神社などで出回っているニセ札の話題から、上田先生がNHK記者時代にスッパ抜いた「ニセ千円札事件」 の貴重な裏話が聞くことが出来ました。ニセ札を持ちながら逃げ回る、端をちょっと破って(えっ、破いたんですか?)紙片を製紙会社と印刷会社に渡して、紙とインクの特定を調べさせる(恐るべし探求心)。常に警察より一歩先の情報を把握し、記事を書く当時の様子を生き生きと語る先生の話を聞きながら、つくづく、今はこんな末恐ろしい(?)ジャーナリストっていないたろうなぁ、上田氏の今もなお熱いジャーナリスト魂の源流を見たような気がいたしました。
この気合は見習いたいものです。ニセ札でも探しにいこーか。

翌日は「戦場からの生き残り証言」取材です。事務所泊。

◆◇2004.12月某日:「取材:戦場からの生き残り証言」


▲カラオケはしませんでした。

一夜明け、町田へ向かう。
代々木八幡宮駅から各駅電車で行くと1時間近くあり、東京って広いんだなぁと今更実感。(もちろん車中で爆睡)

今回の取材の待ち合わせ場所であるファミレスで、戦中「満蒙開拓青少年義勇軍」として満州移民〜戦後3年間のシベリア抑留を経てやっと故郷へ生還したという体験を持つ村西氏とお会いする。
奥様の体調が悪く、自宅で取材が出来なくなったとの事を聞き、嫌な予感が…。

案の定、昼時の賑やかなファミレスで話を始めだそうと…。ヤバイです!待ってください!撮影環境最悪、青ざめる一同。
かなり焦りながらふと道路の向かいを見ると 、「カラオケルーム○○○○」。が目に飛び込む。


これだぁ!藁にもすがる思いで偵察隊出動。
昼間という事もあり空き室多し、受付のお姉さんには「両隣空き室で、一番静かな部屋をお願い!」などと訳の分からない要求をする若者らしき四人とおじいちゃん一人。かなり怪しい客
部屋に入ると即効撮影スタンバイ。わずかに廊下で流れている音楽が入るが背にハラは替えられない。壁面のフックに無理やりライトを取り付ける。
部屋の前に立ちはだかり、店員を部屋に入れようとせず、飲み物をドアの外から受け取るスーツ姿の男性、カラオケもせず、ひたすらビデオカメラ3台でおじいちゃんを取り囲む女性陣。ア・ヤ・シ・イ…

不審がる店員をよそに撮影開始です。
村西さんは当時、16〜19歳の男子を対象にした「満蒙開拓青少年義勇軍」に参加満州移民として、戦争末期には不足となった軍隊(兵力)の補充として故郷の石川県から満州り、終戦後は3年間シベリアに抑留されていた方です。

はっきりとした力強い声で当時のお話をする合間に
「今日本は本当に危ない。恐ろしい事が音を立てて近づいて来るのが判るのです。また日本が戦争をしないように今、戦争を体験した私たち世代が、戦争を知らない世代に戦争の惨さ、悲しみを伝えて再び戦争をしないように歯止めをしなければと思います。」と切望の旨を熱弁していました。心身にしみます。
村西さんが写っている「満蒙開拓青少年義勇軍」の写真を拝見するとびっくりしました。本当に「子供」としか言い様のない少年ばかりです。こんなあどけない少年達が親元を、故郷を離れ、満州へ不足している労働力と兵力の補充にされていた。しかも国家事業としてだなんて。ショックです。

取材が終わると、ロシア留学経験のある記者と今昔ロシア話等でしばし談笑。楽しかったです。
始めはどうなるかとヒヤヒヤしましたが無事終了。村西さんには新たに「朝風の会」という戦場体験者の団体をご紹介いただきました。次の取材先もいただき(?)です。

今日の教訓:「カラオケルーム」も結構イケルぞ!※空いている昼間に限るケド
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆今日のオフショット◇◆◇◆◇◆◇◆
▲先週の晩エサ   ハリマオ〜ハリマオ!ハリマ〜オ!ハリマオ!ハリマオ!ハリマオ〜!
去年暮れに取材した多田さんよりずっと借りっぱなしったっだ。「マレーの虎」の鑑賞会をやっと行いました。
ビデオを流すのはもう、3回目。過去の2回は皆作業しながら見ていた為、断片的にしか作品を把握していなかった…。
実はこの映画、日本軍の協力で製作、しかも海外ロケ。映画会社とのコラボレーション作品。撮影当時軍曹だった多田さんも軍人&マレー人役で出演しているそうですが、多田さん、何処?わかりません!
おぼろげに「怪傑ハリマオ」って聞いたことがあると思ったらこの映画が元祖だそうです。
しかもハリマオって実在の人物。知らなかった…。マレーで理髪師をしていた谷さんが現地人の暴徒に妹を殺され、賊のリーダーとなり復習の為に立ち上がるという「アラビアのロレンス」と「ネズミ小僧」を足して割ったような人っだったみたいです。
セリフの随所に当時を思わせる単語が飛び交い時代背景を感じさせます。
ハリマオ〜ハリマオ!ハリマ〜オ!ハリマオ!ハリマオ!ハリマオ〜!3回目となるとサビが一緒に歌えるまでになってしまいました。
哲塾目前、 世論力TVは「ハリマオ」ブームです。
◆◇2005.1月某日:あけましておめでとうございます。世知辛い世の中ですが、今年も宜しくお願いもうしあげます。
◆◇2004.12月某日:仕事納め?

◆事務所の大掃除も終わり、世論委員の帰省ラッシュと、やっと年の瀬という実感が湧いてきました。
風邪を引いていた影響で進行が遅れていた 「戦場体験放映保存の会」のチラシと会員証がようやく一段落。
会員証は年明けに印刷手配の予定。

◆哲塾の日程も決定しました。会場は受講人数が確定次第決めるそうです。

◆これで後は 「戦場体験放映保存の会」のチラシデータ送信を残すのみ。仕事納めとなりそうです。
  やっと帰省できます。

2004年は選挙から始まり、
世論力テレビ開局から戦場体験放映保存会発足と
私たちにとって波乱万丈、転換期となった年でした。
ご協力頂いた多くの人に感謝!
2005年も世論力テレビをヨロシクお願い申し上げます!


◆…と思いきや、上田先生、メルマガ大晦日に出してる…今度こそ帰省するぞ。
◆◇2004.12月某日:「世論委員会議:戦場体験放映保存の会発足」

この日、戦場体験放映保存の会が発足。
今後の「戦場からの生き残り証言」に対する取材&編集を新たな気持ちで取り組みがんばりましょう。

現在、シベリア抑留体験と中国大陸戦場体験の編集が進行中。新年早々には満蒙少年義勇軍の取材が控えています。
しかし、第一歩である証言者探しが大変で四苦八苦しております。保存会が発足し、多くの賛助会員ができて多方面からの証言者情報に期待をしています。
本年最後の会議にふさわしく来年に向かって今までとは視点を変えて己の殻を打ち破り大きく世の中に飛び出そう!と皆で激励し合い、本年の世論委員会幕を閉じました。

前日、頼りになるウラ世論委員さまのおかげで事務所のネット環境が大幅に改善。
これで複数でのネット接続か可能となり、事務所での作業効率がスムーズになりました。
わが世論力テレビは強力な助っ人に支えられながら日々成り立っていると痛感。ご協力ありがとうございます。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆今日のオフショット◇◆◇◆◇◆◇◆
▲「板尾の揚げ」炙ってます 
▲ケーキに日本茶って…

今日は楽しいぃ〜クリスマスぅ〜!
という事で会議の前日は有志 (?)と共に昼間は社会風刺コント集団ザ・ニュースペーパー今年最後の本公演を堪能。相変わらずの恐れを知らない徹底したコントの数々、すごく面白かったです。
 夜は事務所近くの焼酎バーにてアベックを尻目にクリスマスぱーてぃーを開催。
翌日は1日遅れのクリスマスケーキも頂きました。上のイチゴがばっちり傷んでる…カビか?
しかし、そんな事でひるんでは世論委員は勤まりません。てっぺんのイチゴをはじきケーキを食す。美味しゅうございました。

※酒ばかり飲んでいるだけではありませんお互いの心の交流を深め、前回の会議ではあまり話しが出来なかった問題定義について話し合いとかもしているんです。(サ)

◆◇2004.12月某日:「世論委員会議」

以前から提案で「戦場からの生き残り証言」シリーズの本格的なプロジェクトとして進行して行く為、「戦場体験放映保存の会」を設立すると会議で決定。
12月26日に「戦場体験放映保存の会」発足となります。これはもう時間との戦いとなります。早急に今後一人でも多くの戦場体験の記録を収めるべく取材活動ができるための資金(賛助金)確保の為、多くの賛同者を募れる様がんばります。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆今日のオフショット◇◆◇◆◇◆◇◆
事務所にて個々、戦場体験の編集、保存会のシンボルマークを作成、または戦争関連の本を読みながら例のNHK反省(?)番組を見る。
カメラショットにかなり苦労してそうな雰囲気。内容がうやむやなだけにかえって海老さんの表情が笑えた。しかし海老さんの表情も話同様すぐに飽き、案の定、途中から誰も見なくなった。
◆◇2004.12月某日:「上田哲の直言」収録

会議終了後、そのまま事務所にて「上田哲の直言」収録。内容は番組を見て下さい。
たった20分で収録終了。速い!無駄が無い!準備の方が時間がかかっています。この日に限らず、収録に初めて立ちあう人は皆驚きます。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆今日のオフショット◇◆◇◆◇◆◇◆

▲ビールに続いて「一刻者」で乾杯!
上田先生が帰ってからも今日の会議のまとめやら途中参加者への補充報告。会議で進めることになった企画な等来週のスケジュール調整等で暫く事務仕事。
一段落したところで冷蔵庫から先週の忘年会で残ったビールが「プシュッ」と空けられる。会議後のささやかな楽しみです。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆後日談:日々反省◇◆◇◆◇◆◇◆

先日収録の「上田哲の直言」にて使用したマイクの感度がおかしく雑音まで拾ってかなり気になるとの事。忙しさにかまけてしまい満足な検証をしていなかった事を痛感…反省…。

また、「項目に飛ぶ際。いちいち別フレームでページが開くのは見づらいです。」との視聴者の方の声。日ごろから幾つものサイトを見比べている習性がある、自分勝手な仕様のサイト作りをしてしまったと反省。早速修復作業へ。こういったご意見は本当に参考になって有り難いです。

森監督の「A」、「A2」のDVDをようやく購入。「A」を見ながら更新作業。あぁ、もう2時30分…。

◆◇2004.12月某日:「日の丸君が代:被処問題」取材

もう定例化した週末会議。しかし皮肉な事に同時刻に「日の丸君が代:被処問題」取材。ダブルブッキングです。
まず、新宿三丁目ルノアールでの取材。しかし「ニュー新宿三丁目店」に来てしまい、急いで、「新宿三丁目店」へ。
取材相手がすでに来店。急いでカメラセッティング。取材開始。今回はインタビュー形式での収録でした。
去年の10月から東京都教育委員会より全学校へ送られた卒業式での日の丸・君が代強制命令通達から卒業式当日までを最後まで己の信条から不起立を貫き、処分をうけたある教師の姿を追うドキュメンタリー番組として配信を予定しています。

 取材の帰り、模索舎へ寄って「100万の声」チェック。ありました。「アラファトとのキッス」。
ついでに週末に開催する本業の忘年会でのクリスマスプレゼント交換用の「ゲバラTシャツ」を購入。

 そのころ事務所では会議。昨日のエコプロダクツの報告。哲塾方針。世論委員、維持費の獲得等の議題が話し合われていました。
取材陣が事務所へ戻った午後4時頃、会議は続行中「戦場の生き残り証言」についての今後の展開についての議論の真っ最中。
◆◇2004.12月某日:エコプロダクツ渉外・営業活動


▲さぁ、行きますか

▲なぜ皆、同じメニュー?
コートが邪魔なくらい暖かいお昼前…
 若いアベックを睨みつつ、ゆりかもめに揺られ東京国際展示場(ビッグサイト)へ向かう。
今後の運動資金を得る為、エコプロダクツ2004に出展している企業への「わが社の社会貢献プログラム」CM獲得となりそうな企業への営業とリサーチ。

例のデカイかえるのポスターに出迎えられ、会場へ。行った方は分かると思いますが、此所はむやみに広いので、何度来ても方向感覚を無くしてしまい、目当ての企業ブースになかなか辿り着けない。(自分だけ?)

 とにかく出展数がハンパではありません。社会貢献活動、リサイクル、フェアトレード、エコ商品と各分野ごとに別れての一人調査となり、孤独です。
ビジネス札を掛け、渋いスーツで挑んだ営業君にはブース側からワラワラと人が寄ってくるとの事。スーツ作戦成功のようです。

プロ野球選手が使って折れてしまったバットのリサイクル商品「カットばし」「ブルペン」「すべりこみ」や陶器のリサイクルオリジナルの開発途中商品等面白ろいものがありました。

一旦会場から出て、昼食タイム。
とりあえずざっと会場を見たところでランチタイム。レストランにはあれ程メニューがあるのに皆同じメニュー。何故?

夕方までひたすらブース廻り
足を棒にしながら名刺交換。一通り巡回が終わり、会場から出た時にはすでに暗く、お台場のイルミネーションがチカチカと無気味にアベックを照らす時刻になっておりました。
そんなお台場を振り返りもせず事務所に戻り、収穫物の整理と報告会。エコプロダクツというには紙ものどっさりの資料の山をかき分けながら何気に複雑な感じになります。
そんな事をしている間に時間はすでに8時近く。しかしまだやらねばいけない大事な事が…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆今日のオフショット◇◆◇◆◇◆◇◆

表があるからウラがある。やっぱりやりますウラ忘年会
資料整理が一段落。エコ組に世論委員1名とウラ世論委員1名が加わり、渋谷のネオン街へ、世論(ウラ)忘年会の始まりです。

ギリギリまで参加者が確定できず、予約していない為、案の定待たされる。
しかもやっと席についても4人テーブル(間)2人テーブルに分裂…、とりあえずのビールがサービスされたのでまぁいいでしょう。

20分後やっと6人掛けテーブルへ席移動。本日メインの「あんこう鍋」に舌鼓、これからの「世論運動」について熱く語り合い、焼きイモ焼酎ボトル投入で、皆イイ感じです。
 先週の忘年会ではなかなか話しを切り出せなかったり、しましたが、今回は皆とゆっくり話しが出来て、お互い相乗効果が得られたのではないかと思います。
その後も何人かで事務所で先週の忘年会で余った焼酎を呑み交わしながら盛り上がっていたようです。

◆◇2004.12月某日:「戦場の生き残り証言」取材
▲取材風景。まじめに聞き入っております。

取材陣5名のうち3名が取材デビュー
取材・インタビュー未経験3名のための研修も兼ねて、「戦場の生き残り証言」インタビューを行うため、総勢5名の記者が多田氏のデイケアー先である幡ヶ谷せせらぎへ。
多田氏はなんと91歳。パソコン暦2年でメールはもちろんホームページまで自作しているというアクティブな方。
第二次世界大戦では3回の兵役期間中、勝ち・負けそれぞれの戦争経過を直に戦地で経験されています。

ライブとダブルブッキング…
インタビューはせせらぎラウンジにて行う事になり、早速カメラ・昭明機材のセッティング。いざ取材開始、といったところで…
始まってしまいました。「せせらぎアコーディオン&ピアノライブショー」警戒な音楽がラウンジに響き渡り、インタビューどころではありません。こんなハプニングもあるものだなぁと、ライブ終了まで音楽を聴きながら多田氏と打ち合わせ&多田さんの趣味(仕事)発明品の数々のお話など和んでいました。ライブでインタビューが延期になったことがかえって多田さんとのリラックスした雰囲気が作ることができました。

やっと、インタビュー開始
多田さんが経験した3回の兵役中、母、父、兄が亡くなり、死に目に会えなかった事、中国各地での戦闘、野戦病院での出来事。初期の勝ち進んでいた時期には正月、日本からモチ米が送られてきて餅つきをした事。後期の敗戦ムードが進むにつれ、日本からの物資搬入が間々ならなく食料不足で苦しみカツオを釣って延々とカツオだけで命を繋いだ時の事など。わずか1時間半のインタビューの中で多くの体験をお聞きすることが出来ました。話されている内容はあっとうされるばかりで、時代情勢や当時の地理に対して勉強不足を痛感いたしました。

反省と、教訓と
◆インタビューを行う際、出来る限り雑音をシャットアウトできる個室で行うべし。

◇インタビュー中、取材陣は声を出すべからず。相手の生きた言葉を語らせる為、聞き手に徹するべし。
◆取材内容の骨組みをキッチリ作り込み、事前に取材テーマの基礎知識を叩き込むべし。

◇複数で取材に行き、取材に抜けが無い様、お互いチェックしあうべし。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆今日のオフショット◇◆◇◆◇◆◇◆

▲しゃべる森監督を初めて、しかも直に見ました。

鈴木邦男氏&森達也氏トークライブ「虚と実」
この日はちょうど鈴木邦男氏(一水会顧問)連続トーク「マスコミと日本のあり方を問う!」イベントがあり、取材終了後そのまま高田馬場ライブ塾TRIK-STER)へ。先月は上田哲が出演し、好評をいただきました、
今月のゲストはオウム真理教のドキュメンタリー映画「A」、「A2」の監督森達也氏。偶然にも取材に同行した新世論委員が森監督の最新著書「世界が完全に思考停止する前に(角川書店)」を読んで感銘していたり、森氏のファンが多い世論委員。丁度良い機会だから偉大なドキュメンタリー作家が語る、報道の捉え方、事件の焦点の探り方を聞き、勉強させていただこうということで行ってきました。


森監督は前日から酷い風邪を引いていたにもかかわらず「A」の撮影裏話から9.11、イラク戦争までの日本の報道における矛盾点を鋭く指摘。鈴木氏の著書「公安警察の手口(ちくま新書)」でも取り上げられていた公安の伝統「転びの宝刀」について「A」の映像を見ながら熱のこもったトークを展開。真のマスメディアを目指す私たちにとって、鈴木氏と森監督のトークライブは大変勉強になりました。

森監督は来年、久しぶりにテレビ番組を手がけるそうです。深夜に放送している「ザ・ノンフィクション」という番組が「憲法」をテーマに一ヶ月間特集を組むことになり、森監督は「第一条」を担当、制作を進行しているとの事。放映は2005年3月になるそうです。森氏は「自分の回だけではなくこのシリーズは全回見て欲しい」とおっしゃっていました。楽しみです。


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